【競馬人生劇場・平松さとし】
今から37年前のこの時期、阪神競馬場がどよめきに包まれた。1988年3月6日、当時行われていた
ペガサスS(G3、現在の
チャーチルダウンズCの前身)に、公営・笠松から中央入りを果たした一頭の芦毛馬が出走し、大きな注目を集めた。
オグリキャップ。後に“芦毛の怪物”と呼ばれることになる名馬だった。
デビューから12戦10勝、2着2回。鳴り物入りで
JRAへと乗り込んできた。
中央初戦となったこの日、
オグリキャップは2番人気に支持された。レースでは後方に待機し、直線で一気に加速。2着を3馬身突き放し鮮烈な中央デビューを飾った。
手綱を取っていたのが、当時騎手だった河内洋氏。後に調教師となり、先週の開催を最後に定年を迎えた名ホースマンだった。
「最初に腰が甘くてトモ(後肢)がついてこない印象を受けました。だから、腰が温まるのを待って追い出した結果が、あの競馬ぶりでした」
次の
毎日杯も3角最後方から、直線だけの競馬で、後の
皐月賞馬
ヤエノムテキらを悠々とかわし、改めて規格外の強さを証明した。
しかし、クラシック競走への登録がなく、当時は追加登録の制度もなかったため、
皐月賞(G1)も
日本ダービー(G1)も、出走が許されなかった。
それでも、秋には
毎日王冠(G2)を制し、
JRAでの連勝を6に伸ばした。だが、
天皇賞・秋(G1)では
タマモクロスの2着。続く
ジャパンC(G1)は
ペイザバトラー、
タマモクロスに続く3着に敗れた。
「これを最後に乗り替わりになっちゃったけど、素直で乗りやすい馬だったので、乗り方としては何も失敗はしませんでした」
この翌年の1月途中で昭和は終わり、平成となった。そしてその平成も終わって7年目となる今、また一人、昭和を知るホースマンがターフを去った。時代が移ろうごとに、名馬を育てた名手たちもまた、静かに競馬界を後にしていく。その寂しさをかみしめながら、河内洋氏が刻んできた偉大な足跡を、改めて胸に刻みたい。(フリーライター)
スポニチ