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レイヴンズパス引退・種牡馬入り

  • 2008年11月11日(火) 16時50分
 BCクラシックを快勝したレイヴンズパス(牡3歳)の現役引退が発表された。

 ストーナーサイド・ステーブルの自家生産馬レイヴンズパス(父イルーシヴクオリティ)は、英国ニューマーケットを拠点するジョン・ゴスデン調教師の管理馬として、2歳7月にヤーモスのメイドンでデビュー。9月にサンダウンで行われたG3ソラリオSを7馬身差で制して重賞初制覇を果たすまで3連勝を飾り、エリートコースに乗った。

 その後、権利の一部がシェイク・モハメドによって購買されたレイヴンズパス。今年のクラシックを狙う大物と期待されたのだが、残念ながら3歳の夏を迎えるまで、4勝目となる勝ち星を挙げることが出来なかった。2歳最終戦となった英国における2歳チャンピオン決定戦G1デューハーストSが、翌春ダービーを制することになるニューアプローチの3着。3歳緒戦に選んだ2000ギニーの前哨戦G3クレイヴンSも僅差の2着に敗れると、3冠初戦の2000ギニー、ロイヤルアスコットのセントジェームスパレスSが、いずれもヘンリーザナヴィゲーターの軍門に下って4着と2着。続いて活路を求めて遠征したシャンティーのG1ジャンプラ賞でも、その後古馬相手にG1ジャックルマロワ賞を完勝することになるタマユズの2着。次走、英国における真夏のマイル王者決定戦G1サセックスSでは、またもヘンリーザナヴィゲーターの後塵を拝して2着と、超一線級を相手によく頑張って好走を続けるものの、突き抜けることが出来ず、3歳マイル戦線においては関脇クラスに甘んじていたのであった。

 だが、ヘンリーザナヴィゲーターを物差しとするなら、2000ギニーでは4.1/2馬身あった差が、セントジェームスパレスSでは3/4馬身に縮まり、これがサセックスSになると、勝利を収めるかと思えた刹那があったほどに接戦してアタマ差に食い下がっており、シーズンが進むにつれて確実に追い詰めていたことは間違いなかった。

 サセックスSの後、欧州マイル戦線の主戦場はフランスに移り、ジャックルマロワ賞、ムーラン賞とG1が続くのだが、ここでレイヴンズパスの管理調教師ジョン・ゴスデンは、遠征を行わずに地元に残る戦略に出た。恐らくは、勝ち癖を付けたかったのであろう。8月下旬にグッドウッドで行われたG2セレブレーションマイルに出て、ここでようやく今季初勝利を挙げたのだった。

 08年夏、ストーナーサイド・ステーブルの生産と競馬の組織がシェイク・モハメドにM&Aされたため、殿下の妻であるハヤ王女の服色を背に出走したアスコットのG1クイーンエリザベス2世Sで、レイヴンズパスとヘンリーザナヴィゲーターの立場が遂に逆転した。レイヴンズパスがヘンリーザナヴィゲーターに1馬身の差を付け、念願のG1初制覇を成し遂げたのである。

 レイヴンズパスの父イルーシヴクオリティは、北米で競馬をした馬だが、ダート・芝兼用で活躍した馬だった。しかも、4歳時にガルフストリームのダート7fのトラックレコードをマークしたかと思えば、5歳7月にベルモントパークで行われた芝のG3ポーカーHに出走した時には、1分31秒60という芝1マイルのワールドレコードを樹立。多才にして類稀なる能力を発揮したのである。

 おそらくは、そんな血統背景も考慮されたのであろう。オールウェザーで行われたBCクラシックに駒を進め、同じく欧州から遠征した宿敵ヘンリーザナヴィゲーターに1.3/4馬身の差をつけて快勝した場面は、皆様の御記憶にも新しいところだろう。

 まだ3歳で、しかも3歳秋になって一段と力を付けてきたこと。来年もBCはサンタアニタが舞台で、BCクラシックはオールウェザーで行われること。父の全盛期が5歳時だったこと、などを鑑みると、ファンとしては少なくともあと1年は現役で走る姿が見たかったところだが、いまや種牡馬として計り知れない価値を持ったことを考えると、この段階での引退も致し方ないか。来年春から愛国のキルダンガンスタッドで供用され、初年度の種付け料は4万ユーロと発表された。

 ちなみに、同世代の宿敵ヘンリーザナヴィゲーターも、3歳一杯で引退。こちちは来春からケンタッキーのアシュフォード・スタッドで供用されることが決まっている。両馬の種牡馬としての争いにも注目をしたい。

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1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。

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