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田中剛調教師インタビュー後編

  • 2011年06月30日(木) 12時00分
騎手時代、中山大障害をはじめ、数々の重賞タイトルを手にしてきた田中剛騎手。日本人として初めて、世界最高峰の障害レース・グランドナショナルで騎乗しました。そんな田中剛調教師、開業時に驚きのエピソードが…。

◆開業の日にICU

赤見 :先生は長いこと騎手として活躍されましたが、いずれは調教師にと思っていたんですか?

田中 :いやいや、調教師になんてなれると思っていなかったですから。勉強が嫌いで、鉛筆持つのも大嫌いだったんです。それで騎手という道に入って、最初はダービーやジャパンCという夢もあったんですけど、「障害の田中」というのが結構インパクトがありまして。

赤見 :はい。

田中 :「それなら障害で日本一になってやろう」と思って。そうこうしているうちに、障害200勝というのが見えてきたんです。だから200勝を達成するまでは絶対に辞めないでがんばろうと思って。

赤見 :障害で200勝って、すごい数字ですよね。

田中 :まあでも、上には上がいたんですけどね。それで、200勝して騎手を引退して調教助手になろうかなと考えた時に、「せっかくの今までの自分があるのに、これじゃあ自分じゃないな」って。「このままじゃ一生終われない」と思って、「何がなんでも受からなきゃ」ってがんばったんです。

赤見 :かなり勉強をされたんですか?

田中 :200勝してからは本気で勉強したんですけど、200勝するまでの10年間くらいで法規だけを先に勉強していたんです。法規だけでもかなりの量がありますので、「200勝するまでは法規しかできないですけど、試験を受けさせてください」ってお願いして。

赤見 :最初は法規だけで受けていたんですか?

田中 :はい。試験にも慣れなきゃいけないので、それで10回くらい受けて。200勝してからは3回目くらいで受かりました。その頃は1日5時間くらい勉強していましたね。また、結構あちこち手術をしなきゃいけなくて、入院しながら勉強したりもしていましたね。

赤見 :試験に受かった時はどうでしたか?

田中 :自分より周りがびっくりしたんじゃないですか(笑)? また、開業の時がすごかったんですよね。開業前、柄崎孝厩舎で技術調教師をしていたんですけど、お世話になった牧場の方が関西から馬を1頭転厩させてくれて。開業した時にすぐに使えるようにって、僕が自分で調教もしていたんです。

赤見 :はい。

田中 :で、馬が仕上がったので、柄崎厩舎もいる間に1回競馬を使ったんですね。そうしたら2着来て。「これなら開業に合わせて競馬を勝てるな」という計画だったんですけど、開業の前の前の日にその馬に乗って体重を測りに行ったら、落とされて、肋骨を3本折っちゃったんです。

赤見 :えっ!?

田中 :でも、次の日に追い切りをしないといけなかったので、その晩はとりあえず寝たんですね。それで、次の日に追い切りをしたら、もう息ができなくなって…。呼吸数が上がって、脈も200くらいになっちゃって。

赤見 :うわ…。

田中 :それでも「明日が開業の日だ。寝ちゃえば治る!」と思って寝たんですよ。そうしたら顔が真っ青になってきて。女房に「お父さん、おかしいから病院行ってよ」って言われて救急病院に行ったら、肺に穴が開いて血が1.2リットルくらい溜まっていたんです。

赤見 :ええっ…。それじゃあ、開業の日、先生は?

田中 :入院していました。ICUに入っていましたから。いやでも、そのくらいのケガはしょっちゅうでしたから。慣れていましたけどね。

赤見 :現役の時から、ケガは多かったんですね。

田中 :手術は15回くらいしましたからね。また、減量とか不摂生が普通の生活でしたので(苦笑)。一番大変な時で、毎週5kgくらいは取っていました。

赤見 :それはピリピリするので、後輩さん達は近づけなくなりますね。先生ご自身は、障害に乗るのが怖いとは思わなかったんですか?

田中 :調教師試験の最後の頃は、やっぱり「受からなきゃいけない」というのがあったので、怖いというより自分を守らなきゃというのはありましたね。一度、指をケガして字を書けなくて、試験が受けられなかったことがあったんです。それで「もうケガはできないぞ」というのはありましたけどね。

赤見 :先生は現役の時も開業してからも、いろんなことを乗り越えてこられたんですね。

田中 :まあ、女房がいなかったら、今の自分はないですね。本当、女房がいなくなったらどうしようかなと思います(汗)。

赤見 :本当に素敵なご夫婦でうらやましいです。最後に、先生の夢を教えてください。

田中 :当面の夢は、自分で1から調教した馬を出走させて勝つことですね。

赤見 :やっぱりデビューから自分で調教していくというのが。

田中 :それからだと思っていますので。マジェスティバイオもうちに入厩してから障害の調教をして、それで障害を勝ったんですけど、でもやっぱり2歳から、ゲート試験を受かって出走して勝たせなきゃ本物じゃないなって、今現時点では思っているんです。

赤見 :レースでは?

田中 :レースはどんなレースでも。僕は騎手の時もそうだったんですけど、未勝利でもGIIでもGIでも、ゲートが開いちゃえばみんな同じレースだと思っていますので。だからレースはそういうふうに区別しないで、1つ1つ勝ちたいですね。それが目標です。

東奈緒美 1983年1月2日生まれ、三重県出身。タレントとして関西圏を中心にテレビやCMで活躍中。グリーンチャンネル「トレセンリポート」のレギュラーリポーターを務めたことで、競馬に興味を抱き、また多くの競馬関係者との交流を深めている。

赤見千尋 1978年2月2日生まれ、群馬県出身。98年10月に公営高崎競馬の騎手としてデビュー。以来、高崎競馬廃止の05年1月まで騎乗を続けた。通算成績は2033戦91勝。引退後は、グリーンチャンネル「トレセンTIME」の美浦リポーターを担当したほか、KBS京都「競馬展望プラス」MC、秋田書店「プレイコミック」で連載した「優駿の門・ASUMI」の原作を手掛けるなど幅広く活躍。

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