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被災馬ドキュメントPart1 伝統をつなぐ美女と馬

  • 2012年05月05日(土) 12時00分
6月から島田明宏さんによる競馬小説コンテンツがスタートします。東日本大震災で被災した競走馬の生産牧場。そこで奇跡的に生き延びた一頭のサラブレッドが、様々な人々との絆の中でたくましく成長し、クラシックを目指していきます。小説スタートに先立ち、5月の「熱視点」では福島県の被災馬たちをピックアップ。震災の裏側で、馬たちはどんな日々を歩んだのでしょうか。被災地の知られざる現実に迫ります。

 千年以上の伝統を持つ、世界最大級の馬の祭り「相馬野馬追」。舞台となるのは福島県東部の沿岸部、いわゆる「浜通り」に位置する相馬市と南相馬市である。

 昨年は東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故の影響で、呼び物の甲冑競馬や神旗争奪戦のない縮小開催となったが、飢饉のときも太平洋戦争中も途切れることのなかった伝統が、しっかりとつながれた。

「東日本大震災復興 相馬三社野馬追」として行われた2011年度の野馬追において、神社の境内で行われた出陣式でも、甲冑姿の侍を背にした数百頭の馬が街中を練り歩く騎馬武者行列でも、ひとり、華やかな異彩を放つ女性がいた。

相馬中村神社の禰宜、田代麻紗美さん

相馬中村神社の禰宜、田代麻紗美さん

 相馬中村神社の禰宜(ねぎ)、田代麻紗美さんである。

 この地は、鎌倉時代から明治維新まで、相馬氏が代々の藩主として統治した相馬中村藩(「相馬藩」と呼ばれることも)であった。相馬中村神社は、藩主・相馬氏の居城だった中村城址にあり、相馬野馬追のときはスーパークリークの生産者でもある相馬氏33代目当主・相馬和胤(かずたね)氏や34代目当主の行胤(みちたね)氏らが拠点にし、「総大将お迎え」や出陣式が行われるなど、野馬追においても重要な役割を果たしている。

 ここ相馬中村神社には20馬房ほどの厩舎と馬の運動場などもあり、NPO法人「馬とあゆむSOMA」の拠点になっている。田代さんはその中心メンバーでもあり、ここに繋養されているマイネルアムンゼン、マキバスナイパー、トウショウモードなどの元競走馬の世話をし、野馬追のほか、境内や近隣で行われるイベントなどにも、馬たちとともに参加している。

 相馬野馬追に出ている馬の多くが元競走馬であることは本稿にたびたび書いてきた。田代さんと話していると、この地に暮らす人々と私たち競馬ファンが、馬に対して共通する認識を持っていたり、まったく違った形で触れ合っていたりという両面が感じられて、とても興味深い。

 今年の相馬野馬追は、7月28日から30日まで、例年どおりの規模で行われることが先日発表された。それに合わせ、昨夏から北海道の日高町に避難していた馬たちが4月の中ごろからこの地に帰ってきはじめている。野馬追に参戦する人馬の多くは、毎年ゴールデンウィークになると調教(この地の人は「練馬(れんば)」と言う)を始める。日の出前から練習馬場に向かう馬たちの蹄音が「パッコラパッコラ」と響く、この土地ならではの季節がやってきた。

「人も馬も被災したわけですが、逆に野馬追を多くの方々に知ってもらういいチャンスだと思うんです。去年は存続させることで精一杯でしたが、今年はいろいろ発信していかなくてはならい年だと思います」

 そう話す田代麻紗美さんは、相馬氏の始祖と言われる平将門の時代にまで起源をさかのぼる相馬中村神社の30代目の宮司として甲冑行列に参列している。騎馬武者として参加できる女性は20歳未満で未婚の者と決められているので、彼女が行列にいる唯一の成人女性である。

「私も20歳になるまでは甲冑を着て出ていました。うちは3人姉妹で私が長女なのですが、みんな5歳で初陣を迎えたんです」

―自分がこの神社を守っていく

―自分がこの神社を守っていく

 29代目の宮司である父・田代誠信氏は、彼女に跡を継いでほしいと口に出したことは一度もなかった。彼女自身もずっとパイプオルガンに熱中しており、音大に進むつもりでいたが、高校3年生のときの野馬追で、

 ――やはり、自分がこの神社を守っていくべきなのかな。

 と思い、騎馬武者行列のとき「継がせてください」と誠信氏に気持ちを伝え、國學院大学に進んで神職の資格を取得した。

 代々世襲で相馬中村神社の宮司をつとめてきた彼女の祖先は、相馬氏が千葉にいたころから800年近く仕えてきたことになる。私が去年、野馬追を取材したとき、彼女は相馬氏34代目当主の行胤氏を「若」と呼んでいた。野馬追の時期は一帯が戦国時代にタイムスリップしたかのようになるので、白装束をまとった彼女が甲冑を着た総大将をそう呼ぶところを見てもまったく違和感がなかった。

「私は普段も『若』と呼んでいます。今年5歳になるうちの娘は『若様』と。相馬家とうちとは昔から同じような血が流れているので、話をしなくてもつながっているというか、自然とお互いを支え合っているように思います」

 相馬野馬追は人生の一部とも、あるいは体の一部とも言える彼女は、大学卒業後、スパルタで知られる近隣の厩舎で馬乗りを本格的に習いはじめた。私たち競馬ファンがただ「厩舎」と言うと、トレセンや競馬場の内厩を指すのが普通だが、馬事文化が根づいているこの地には、競馬用語の内厩でも外厩でも、また乗馬クラブでもなく、野馬追に向けて馬を繋養している個人やグループが管理する「厩舎」がいくつもある。

「最初に乗せてもらったのが、重賞(2002年ラジオたんぱ賞)を勝ったカッツミーという馬だったんです。カッツミーはほかの人が乗るとすごく引っ掛かったんですけど、体重の軽い私を背にすると掛かることもなく、一生懸命乗せてくれた。彼に愛情をかけているうちに馬にのめり込んでしまいました。馬乗りはカッツに全部教えてもらって、その後、競走馬時代に障害で活躍したダイワデュールという馬にも乗せてもらいました。馬の魅力は、やればやっただけ返してくれる、というところでしょうか」

 相馬中村神社の静かな社務所で、競馬場には一度も行ったことがないし馬券も買ったことがないという田代麻紗美さんの口から懐かしい馬名を聴くと、何か不思議な感じがする。

三冠牝馬の忘れ形見・ジューダ

三冠牝馬の忘れ形見・ジューダ

「今年はジューダという元競走馬が初めて野馬追で活躍します。キンカメとスティルインラブの子供です。スティルインラブが唯一産んだ子供なんですよね。第2子を妊娠しているときに亡くなったので。お父さんやお母さんなどの血統がわかって応援できることも馬の魅力ですよね。そういったデータなどを調べるときによく『netkeiba.com』を見ています(笑)。あと、この地方にはバクシンオーがすごく多いんですよ。甲冑競馬が行われる雲雀が原が1周1000mの短距離なので、向いているんですよね」

 テレビなどでレースを見ることはあるというものの、競馬未体験の女性の口から「キンカメ」とか「バクシンオー」という言葉がポンポン飛び出すのも、この地ならではという気がする。

 また、クルマで30分ほどで行ける宮城の山元トレーニングセンターとは、同トレセンのスタッフが相馬中村神社の馬場で馬乗りの練習をするなど人の行き来があるという。

 東日本大震災が発生した3月11日午後2時46分、彼女はここで社務をしていた。「馬とあゆむSOMA」スタッフの中野美夏さんの住まいが南相馬市鹿島区にあったので一緒に状況を見に行ったら、彼女の家は津波に呑まれており、飼っていた2頭の馬もいなくなっていた。

 神社の敷地を鳥取県警に、社務所などの建物をボランティアの宿泊所として提供しながら、田代さんは震災翌日から、被災した馬たちを救うべく、仲間とともに海沿いへと向かった。
(つづく)

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作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊競馬ブック、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。netkeiba.com初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリー『ダービーパラドックス』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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