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第12話 白い馬

  • 2012年08月20日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市の小規模牧場・杉下ファームは、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われた。代表の杉下将馬が救い出した「シロ」という愛称の繁殖牝馬は牧場に戻って牡の仔馬を産み、息絶えた。直後に原発事故が起きたため、将馬は仔馬を連れ、相馬の神社に避難した。仔馬は「キズナ」と名付けられた。キズナは、美浦の大迫調教師とともに訪ねてきた馬主の後藤田によって1億円の高値で購入された。夏、キズナは後藤田が所有する北海道の牧場へと旅立ち、将馬が様子を見に行ったら放牧地のボスになっていた。

『白い馬』

 険しい姿を見せる日高山脈を背に、一頭の馬が立っている。静かな目をしたその馬は、じっと海を見つめている。視線の先にはどれほど大切なものがあるのだろうか--。

「ママ、お馬さんが来てるよ」

 少女が窓越しに坂道を指さした。しかし、馬はもちろん人影もなく、この母娘と同じように福島から避難してきた人々が多く暮らす公営住宅があるだけだった。

「こんなところにお馬さんがいるわけないじゃない」

「いたもん。白いお馬さん」

「白い馬……」

 2012年春、日高町では、住宅地で白い馬を目撃したという声がたびたび聞かれるようになっていた。

 最初の証言は、前年の津波で両親を亡くし、この町の親戚に引き取られた男の子が公園のベンチで泣いていたとき、その子が泣きやむまで、白い馬がずっと寄り添っていた、というものだった。

 なぜか福島から来た人々の前に現れることが多く、また、小学校の近くでしばしば目撃されたので、いつしか「謎の白い馬は福島の言葉がわかるらしい」とか「子供が好きらしい」と言われるようになっていた。

 そのうち、海辺で昆布を食べていたとか、立ち上がってヒグマを威嚇していた……などという「都市伝説」のような証言まで出てくるようになったが、そうした噂も、北海道が遅い夏を迎えたころにはまったく聞かれなくなった。

 それはちょうどキズナが、Gマネジメントのイヤリングから育成厩舎に移ったのと同じ時期だった。

 1歳になってからも順調に成長をつづけたキズナは、Gマネジメントに3つある育成厩舎のうち、もっとも多くのGI馬を送り出している横川厩舎で馴致・育成されることになった。

 将馬が横川厩舎を訪ねたとき、キズナの馬房の前に、厩舎長の横川とイヤリングマネージャーの小山田がいた。小山田は、将馬を横川に紹介したあと、キズナの顔を見て苦笑した。

「こいつはうちにいたとき、ある時期から脱走の常習犯になってしまったんです」

「脱走、ですか」

 驚く将馬に小山田は、

「雪が積もって牧柵を乗り越えやすくなったときに味をしめたのかな。雪がなくなってからも、こいつだけは楽に柵を飛び越えられるものだから、ぼくがいなくなるのを待って脱走するんです」

 と言い、キズナの首筋をぽんと叩いた。

「で、どこに行っていたんでしょう」

「海のほうの国道235号線あたりまで行っていたようです。ここから5キロ以上離れているのですが、そこでブラブラしあと夕カイバの時間までに帰ってきて、ツラッとしている」

「そういう馬って多いんですか」

「いや、こいつが初めてです。こんな馬ばかりだったら大変ですよ。外をうろついているイヤリングがいるなんて会長に知れたら、ぼくはクビです」

 キズナは新聞やテレビでたびたび紹介されているので顔も名前も知られているのだが、何キロも離れたところに出現する「謎の白い馬」がキズナだと気づく人はさすがにいなかったようだ。

「もう脱走の心配は……」

「ないです。育成厩舎に入ると、毎日人を乗せるようになり、ケガでもしない限り、放牧地に出すことはなくなりますから」

 こうして将馬と小山田がやりとりしている間、横川はひと言も話そうとしなかった。年齢は30代半ばだろうか。がっちりとした体躯で四角い顔をした、ちょっととっつきにくそうな印象の男だった。

 小山田が横川に話しかけた。

「横川さん、キズナはハミも腹帯も、馴致はスムーズだったんですよね」

「ああ。もう人を乗せてる」

 意外と優しい口調だった。

「横川さん自身は?」

「乗ってみた」

「どうでした?」

 と問われた横川は腕を組み、眉間にしわを寄せた。

「乗り味はいいけど、もっと食わせて体に芯を通さなっかなんねえべ」

 その言葉を聞いて「あれ?」と思った。将馬が訊いた。

「横川さんも福島の浜通りの出身ですか」

「な、なんでわかった?」

 語尾やイントネーションからバレバレなのに、心底驚いているらしく、ちょっと申し訳なく感じた。

「いや、なんとなく……」

「横川さんは、何かに集中したり、真剣に考えているときだけ、お国なまりが出るんです」

 と小山田。

「よく小山田にそう言われるんだけど、自分じゃわからないんだよなあ」

 その響きを聞いてキズナもリラックスしたのか、馬房のなかで横になり、ゆっくりと目をとじた。

 横川も南相馬出身で、小さいころ相馬野馬追の騎馬武者行列に参加したことはあるが、中学生のとき、父の仕事の都合で北海道に越してきたのだという。

「キズナをよろしくお願いします」

 と将馬が頭を下げると、横川は、

「おう。お互い頑張っぺ」

 と右手を差し出した。握り返すと、見た目の印象以上に分厚く、あたたかい手だった。(次回へつづく)

▼登場する人馬
杉下将馬…杉下ファーム代表。2010年に牧場を継いだ20代前半。
キズナ……震災翌日に生まれた芦毛の1歳牡馬。父シルバーチャーム。
ブライトストーン…キズナの母。愛称シロ。父ホワイトストーン。
大迫正和……美浦トレセンのカリスマ調教師。
後藤田幸介……大阪を拠点とする大馬主。日高町に生産・育成牧場「Gマネジメント」を所有する。
小山田……Gマネジメントのイヤリング部門責任者。
横川……Gマネジメント育成厩舎長。南相馬出身。

※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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