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第13話 不安

  • 2012年08月27日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市の小規模牧場・杉下ファームは、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われた。代表の杉下将馬が救い出した「シロ」という愛称の繁殖牝馬は牧場に戻って牡の仔馬を産み、息絶えた。直後に原発事故が起きたため、将馬は仔馬を連れて相馬の神社に避難した。仔馬は「キズナ」と名付けられた。キズナは、美浦の大迫調教師とともに訪ねてきた馬主の後藤田によって1億円の高値で購入された。キズナは後藤田が所有する北海道の牧場で馴致、育成された。

『不安』

 2013年、キズナは2歳になった。

 将馬は、Gマネジメントの育成厩舎長の横川が送ってくれた、キズナの走りを撮影したDVDを見ていた。

「これで大丈夫なのか?」

 将馬は思わず声をもらした。

 以前はほとんど気にならなかったキズナのある癖が、2歳になり、ハロン20秒ほどのキャンターをするようになると、はっきり表に出るようになっていた。

 キズナは、四肢のうち、右トモだけを外に振るようにして踏み出すのだ。どこかが痛くてそうするわけではないので、癖というか、「そういうトモの送り方をする馬」としか言いようがない。

「右トモが外側になる左回りのコースならともかく、内側に来る右回りでは、若干走りがぎこちなくなります」

 送られてきたDVDに同封されていた横川からの手紙に、そう記されていた。

 思い起こしてみると、当歳の早い時期から、右トモを回すようにして歩くことがあった。

 ――癖にならないうちに矯正しておくべきだったのか。

 ――イヤリングの小山田さんに、きちんと申し送りしておけば違ったのではないか。

 さまざまな思いが脳裏に浮かび、悔いるような気持ちになった。

 3月11日、東日本大震災発生から2年という節目に、キズナは日高町のGマネジメントを離れ、茨城のジョイフルファームでデビューに向けて調教されることになった。

 ここは美浦トレーニングセンターからクルマで20分ほどのところに位置し、大迫調教師が自身の厩舎の外厩として馬を預けている唯一の育成場である。

 将馬がいる相馬の神社から、東北自動車道の福島西インターまで1時間半ほど、そこから磐越自動車道を経由し、常磐自動車道の桜土浦インターまで2時間半、さらにジョイフルファームまで30分ほどかかるので片道4時間半ほども要することになるが、クルマで行けるところにキズナが「帰ってくる」というのは嬉しいことだった。

 キズナがジョイフルファームに到着し、馬運車から降りるところを夕方のニュースで見ることができた。

「復興がまだまだ進まない被災地の現状をほかの地域の人々に忘れてほしくない」というメッセージを発信するため、オーナーの後藤田の意向で、あえてこの日に移動させることにしたという。馬運車の脇には大迫の姿があった。彼の隣にいるタレントのような女性は、取材に来たキャスターだろうか。

「被災馬として注目されたキズナ号が、無事に茨城の牧場に到着しました。順調なら、この夏には競走馬として走る姿を、私たちに見せてくれることでしょう」

 というナレーションで締めくくられ、画面は次のニュースに切り換わった。

 ナレーターの「順調なら」という言葉に、キズナが右トモを回すようにしながら歩く姿が重なり、将馬は複雑な気分になった。

 大迫がどう思っているのか知りたかったし、何よりキズナに会いたかったので、1週間後、ジョイフルファームに行くことにした。

 ジョイフルファームの正門は、注視していないと見過ごしてしまうほど奥まったところにあり、しかも地味だった。

 牧場事務所とおぼしき建物もGマネジメントのそれと比べると質素だし、どの厩舎もかなり築年数が経っていた。しかし、ひと棟だけ重厚な雰囲気のレンガ貼りで、隣に新しい洗い場のある厩舎があった。

 クルマから降りて何とはなしにそちらの様子をうかがっていると、後ろから声をかけられた。

「迷わずに来れたかね」

 声の主は大迫だった。

「はい、どうにか」

「ちょうど今馬場入りしたところだ」

 オールウェザーの周回コースを、キズナが右回りに走っていた。

「乗っているのは、ここの人ですか?」

 プロの騎手のように綺麗なフォームで、水平になった背中のラインがまったくブレない乗り手だった。

「いや、うちの調教助手だ」

「大迫厩舎の……」

 と言いかけた将馬は、目の前を駆け抜けるキズナの鞍上を見て息を呑んだ。その乗り手は、先日のニュースで見た、タレントかキャスターかと思った女性だった。

「内海真子君と言ってね。馬術の高校チャンピオンになったのに、オリンピック選手より競馬サークルを選んだ変わり者だ」

 真子を背にしたキズナが向正面に差しかかった。苦手なはずの右コーナーでも走りはスムーズに見える。

「キズナの右トモ、大丈夫でしょうか」

「見てのとおり、右回りでもずいぶん首の使い方が上手になった。Gマネの横川さんとキズナ自身が頑張ってくれたからだろう」

 キャンターでの調教を終えたキズナが、常歩でこちらに戻ってくる。走っているときはわからなかったが、こうして歩くと、やはり右トモを少し外に振っている。

「先生!」

 馬上で真子が怒鳴るような声を出した。

「なんだ?」

「どうしてもわたしがこの馬を担当しなくてはいけないのですか?」

 顔を紅潮させた真子は、大迫を睨みつけていた燃えるような目を将馬に向けた。そして、頭をかきむしるようにしてヘルメットを脱ぎ、こちらに投げつけた。(次回へつづく)

▼登場する人馬
杉下将馬…杉下ファーム代表。2010年に牧場を継いだ20代前半。
キズナ……震災翌日に生まれた芦毛の2歳牡馬。父シルバーチャーム。
ブライトストーン…キズナの母。愛称シロ。父ホワイトストーン。
大迫正和……美浦トレセンのカリスマ調教師。
後藤田幸介……大阪を拠点とする大馬主。日高町に生産・育成牧場「Gマネジメント」を所有する。
小山田……Gマネジメントのイヤリング部門責任者。
横川……Gマネジメント育成厩舎長。南相馬出身。
内海真子……大迫厩舎調教助手。

※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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