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第15話 競馬界の問題児

  • 2012年09月10日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市の杉下ファームは、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われた。代表の杉下将馬が救い出した牝馬は牧場に戻って牡の仔馬を産み、息絶えた。仔馬は「キズナ」と名付けられた。キズナは、美浦の大迫調教師とともに訪ねてきた馬主の後藤田によって1億円の高値で購入された。後藤田が所有する北海道の牧場で馴致、育成されたキズナは、2歳の春、美浦トレセンに近い育成場に移った。そこで将馬は、キズナを担当する女性調教助手・内海真子に出会った。

『競馬界の問題児』

 茨城県のジョイフルファームは、1周1マイルのオールウェザーの周回コースとウッドチップの坂路コースを有する育成場である。美浦トレセンからクルマで20分ほどとアクセスもいいため、10人以上の調教師がここを外厩として利用している。

 ひと棟だけ、ほかとは新しさも重厚感も違うレンガ貼りの厩舎がある。横に8つ並んだ馬房が通路を挟んで向かい合う、合計16馬房のその厩舎の出入口はアーチ状になっており、上部に「OHSAKO」と刻印されている。この建物は大迫が私費を投じてつくった、彼の管理馬専用の厩舎なのである。

 毎日の調教と厩舎作業をする常駐のスタッフはジョイフルファームの社員だが、ときおり美浦・大迫厩舎の調教助手が、自らの担当馬の状態を確かめるため乗りに来る。

 内海真子は、キズナを担当することが決まると、キズナがここに来た日から毎日欠かさず足を運んでいるという。

 この厩舎では音に慣れさせるため比較的大きな音量でポップスを流しているのだが、キズナの馬房のなかにいる彼女は、まったく違うメロディーを口ずさみながら敷料を整えている。

 そうした真子の様子に気を取られていた将馬は、大迫の、

「ダービー翌週にも間に合いそうだが……」

 という言葉を聞き逃してしまった。

「す、すみません……ダービーが、どうしたんでしたっけ」

「キズナのデビュー戦をいつにするかという話だよ。オーナーは任せると言ってくれている」

「そうですか」

 将馬としては、やはりキズナと自分の故郷である福島競馬場の新馬戦でデビューしてほしいと思っていた。

 しかし、左回りのほうが走りがスムーズなのだし、翌年のことを考えても、広い東京か新潟のほうがいいのだろう。

「2回福島にしようと思っている」

「はい?」

 一瞬、大迫の言葉の意味が呑み込めなかった。

「七夕賞の日に芝1800メートルの新馬戦が組まれている。今から3カ月半後だ」

「キズナを福島でデビューさせてくれるんですか!?」

「そうしてほしいと思っていたなら言えばいいのに、相変わらず遠慮がちだな」

 大迫と将馬の話が聞こえているはずだが、真子は鼻唄を歌いながら厩舎作業をつづけている。

 ――右回りの福島でデビューなんてとんでもない!

 と、逆上するのではないかと身構えていた将馬は拍子抜けした。

 彼女は、そこに自分とキズナ以外の生き物はいないかのようにキズナに接し、しょっちゅう話しかけている。そのうち半分ほどは「わかった?」「返事は?」など唇を尖らせての言葉だが、意識して馬に語りかけるようにしてきた将馬よりずっと自然に馬に声をかけ、そして、何らかの「返答」を得ている様が伝わってきた。

「では、わたしはこれで失礼します」

 馬房から出た真子が、歌うように澄んだ声で言った。ずっと誰かに似ていると思っていたのだが、今わかった。フィギュアスケートの安藤美姫選手だ。

 厩舎の前に、軽自動車の四駆と、シルバーのポルシェ911が停まっている。

 当然、ポルシェは大迫のクルマだと思っていたら、真子は長靴を履いたままポルシェに乗り込み、エンジンをかけた。

 低いエンジン音が響くと、キズナがカイバ桶から顔を上げた。間違いなく、キズナはこの音を「真子が出す音」として認識している。

「知っているだろう?」

 と大迫は、私鉄と百貨店、不動産会社などを経営するグループ企業のオーナーの名を口にした。

「はい、もちろん」

「内海は彼の孫娘なんだよ。根は素直なんだが、純粋培養されすぎたのか、子供のまま大人になってしまったのかな」

 厩舎前に停められた、将馬の軽トラックより少し新しい軽四駆のドアハンドルに手をかけ、大迫は言った。自身のクルマより、外厩などの施設に金をかけるあたりも大迫らしさなのだろうか。

「大迫先生、ぼくも夕方、美浦トレセンの厩舎に行っていいですか」

「構わないよ。ちょうどいい。キズナの主戦騎手も来ることになっているから紹介しよう」

「誰ですか?」

「上川博貴だ」

 その名を聞いた将馬は、少しの間、自分の全身の機能が停止したように感じた。

「か、上川って、あの上川ですか」

「すべてを任せると言ってくれた後藤田オーナーも、上川を起用すると言ったときだけは絶句していたよ」

 それは当然だと思った。

 上川博貴。デビュー2年目に関西リーディングを獲り、その後、数々のGIを制して「天才」と称された騎手である。エッセイ集がベストセラーになり、自身がボーカルをつとめるバンドを率いてお台場に数千人を集めてライブをするなど多才ぶりを発揮する一方、問題発言や暴力事件を繰り返し、30歳になったころから勝ち鞍が減っていった。そしてついには裏社会とのつながりを指摘され、騎手免許を剥奪される寸前まで行った男だ。一度騎手免許を返上し、関東に拠点を移して再起を狙っているという噂は本当だったのか。そして、上川を窮地から救い出したのはある大物調教師だと聞いていたのだが、それはこの大迫だったのか。(次回へつづく)

▼登場する人馬
杉下将馬…杉下ファーム代表。2010年に牧場を継いだ20代前半。
キズナ……震災翌日に生まれた芦毛の2歳牡馬。父シルバーチャーム。
大迫正和……美浦トレセンのカリスマ調教師。
後藤田幸介……大阪を拠点とする大馬主。日高町に生産・育成牧場「Gマネジメント」を所有する。
内海真子……大迫厩舎調教助手。安藤美姫に似ている。

※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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