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第20話 新馬戦

  • 2012年10月15日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市の杉下ファームは、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われた。代表の杉下将馬が救い出した牝馬は牧場に戻って牡の仔馬を産み、息絶えた。仔馬は「キズナ」と名付けられた。キズナは、美浦の大迫調教師とともに訪ねてきた馬主の後藤田によって1億円で購入された。2歳初夏のデビュー戦を控えたキズナの主戦は「壊し屋」と呼ばれるかつての一流騎手・上川博貴に決まった。大迫から勝ち方の注文を受けた上川は、福島での新馬戦に臨んだ。

『新馬戦』

 パドックで初めてキズナに跨った上川博貴は、剛性感の高い乗り味に驚いていた。普段の足に使っているジャガーなどは、ドアを閉めるときの「ボム」という音を聞きながらシートに伝わる振動を受けとめるだけで剛性の高さがわかるのだが、鞍に尻を置いた瞬間、その感覚を思い出した。

 ――こいつはそれ以上だ。まるで戦車だな。

 揺さぶるように重心をずらしてもびくともしない。この小さな体のどこに強靱な芯が通っているのだろうか。

 もうひとつ不思議なのは、キズナの背にいると、周囲が急に静かになったように感じられることだ。外部の音だけではなく、自身の呼吸音や心音などを聴く内耳も雑音から逃れ、キズナと互いに耳を澄まし合っているかのような気がしてきた。

「面白い馬だ」

 気がついたら、大迫の「どうだ?」という問いかけに、そう答えていた。

 馬場入りしてから内ラチ沿いを歩く馬が多いなか、上川はあえてキズナに外ラチ沿いを歩かせた。

 ――見てみろ。これが競馬場ってやつだ。ここにいる人間たちが、お前の走りを見て大声を上げても、驚くんじゃねえぞ。

 ゆっくりと歩いていたキズナが、ほんの少しだけ顔と耳を動かした。

 ――どうした?

 カメラでも気にしたのかと、横目でスタンドのほうを確かめると、生産者の杉下将馬と、ほっそりした女が立っていた。

 ――お前、本当に馬か?

 返し馬でキャンターにおろすときの1歩目は、上川がそうしなくても馬が自分でそっと踏み出すような感じだった。

 手綱に伝わる口のやわらかさ以外は、完成された古馬のような雰囲気だった。鞍上の指示を待ち、それをきちっと受けとめ、言われたとおりに動く。よくも悪くも、まとまっている。爆発力につながる危なっかしさのようなものはまったく感じさせない。

 ――なるほど。これじゃあ普通の馬だって勘違いされちまうだろうな。

 あえて無個性であろうとしているかのような、セールスポイントも欠点も感じさせない走り方をする。

 新馬戦だから当然だが、周りには口を割ってイヤイヤをしたり、指示を無視して突っ走ろうとする馬が何頭もいる。スタンド前からの発走となるだけに、余計に怖がったり、興奮してしまうのだろう。なのに、この馬は汗ひとつかかず、淡々としている。

 ファンファーレが鳴った。

 ゲート入りもスムーズだ。先入れの奇数枠だったが、おとなしく他馬の枠入りを待っている。

 ゲートがあいた。

 上川は普通に出したつもりだったが、キズナはそろりとゲートを出て、1馬身ほど出遅れてしまった。キャンターにおろしたときと同じように、自分でスピードを加減したような感じだった。

 そのまま無理せず他馬を先に行かせ、最後方の16番手につけた。

 スピードが上がるにつれ、重心の真下に近いところだけで地面を蹴り、四肢を意識して近いところに着地させているかのような走り方になっていく。大迫厩舎の走りそうな馬はだいたいこんな感じだ。馬術の選手だった調教助手が多いからだろうか。

 手前を替えて1コーナーに入った。走りが少し窮屈になったのは、パドックで見せた右トモを回すような歩き方に関係しているのかもしれない。

 2コーナーでもまだぎこちなさは残っていたが、1コーナーを回ったときよりは四肢の回転がスムーズになっている。

 ――それはいいんだが、参ったな。

 先行馬群は手綱の引っ張り合いになっているようで、ペースがガクンと遅くなった。

 この流れのなか、せっかく折り合っているのに、途中で動いて変な癖がついては困る。

 3コーナーあたりから一気にマクるか。それとも、少し荒れ気味なので他馬が避けて通る内を突くか、あるいは、ここから少しずつポジションを上げて行くか。

 相手になりそうだと見ている2番の馬は、4、5番手の外目という絶好位につけている。母系の特徴からすると、小回りコース向きの瞬発力が武器で、脚の使いどころさえ間違えなければ、総合力で優る相手に一泡吹かせるタイプだ。

 ――やはり、あの馬の近くで競馬をしたいな。

 上川はキズナを外目に持ち出し、そっと小指一本ぶんほどハミを詰めた。

 アクセルを踏んだぶんだけ加速する高性能車のように、キズナはじわっと進出した。

 3コーナー手前で中団まで押し上げ、2番との差を4馬身ほどに縮めた。前が壁になるポケットに誘導すると、キズナはスッとそこにおさまってくれた。

 3コーナーを回りながら急激にペースが上がった。

 激しく追われても反応し切れない馬が次々と脱落していく。

 4コーナーで、上川の前に、2番を追いかけながら直線で外に併せるルートが出来上がった。すぐにそこを走らなければ他馬が張り出してきて邪魔をされるリスクがあるのだが、この手応えからして、今入ると突き抜けてしまいそうだ。大迫の僅差勝ちの注文に応えるために、ひと呼吸、いや、ふた呼吸待ってから動き出すことにした。

 直線に向いた。福島芝コースの直線は292メートルしかない。

 先に抜け出した2番が独走態勢に入った。

 上川は、キズナの首を起こしては押す、という動作でストライドを少しずつ伸ばしてやった。

 ――そう、いい感じだ。もっと伸ばせるだろう、もっと……。

 3完歩、4完歩とストライドを意識しながら走らせているうちに、自然と2番との差が詰まってきた。

 ラスト50メートル地点で、内外、少し馬体を離してほぼ並びかけた。

 相手は何発も鞭を入れられているが、キズナはほとんど体力を消耗していない。

 急に歓声が上がった。後ろから何か飛んできたのか……とターフビジョンを見たが、3番手は10馬身以上ちぎれている。

 どうやら、この2頭のマッチレースになったと思われ、スタンドが沸いたようだ。

 ――きょうのところは、このストライドでいいぞ。このまま、このまま……。

 ゴールまであと5完歩。今、ほぼ横並びの状態だ。次の完歩で鼻だけ出て、その次で頭、そして最後の2完歩で首差にしてゴールすればいい。

 そうしたイメージで最後のストライドを伸ばし、ゴールを通過しようとした瞬間、ギクリとした。

 ――お前、何をするんだ。

 キズナは最後の1完歩だけ、ぐっと重心を沈め、それまでの完歩より格段に強く、鋭く、前に進んだ。

 勝った。しかし、今の感じからして内の2番を半馬身以上かわしてしまったようだ。

 検量室前に戻ると、担当の内海真子が泣いていた。

 福島開催のときだけバレットを頼んでいる学生アルバイトまで泣いている。

 上川が下馬すると、近くに陣取った観客から拍手が沸き起こった。ものすごい数のテレビとスチールのカメラが通路側の一角に集まり、こちらにレンズを向けている。

 口取り撮影は、まるでGIのそれのような賑やかさだった。

 震災直後に県内の南相馬で生まれ、親と死に別れた「被災馬の星」が、故郷と言える福島競馬場で新馬勝ちしたのだから、騒ぐなというほうが無理なのか。

 ありがとうございました、と杉下将馬が差し出してきた右手をぐいっと引き寄せ、訊いた。

「お前は泣かないのか」

「はい、大きいところを勝つまでは」

「そうか。いい心がけだ」

 検量室のモニターでレース映像を見ていると、横に大迫が来た。

「最後のひと脚も計算のうちだったのか?」

「わかってるくせに訊くんじゃねえ。首差ぐらいでゴールするイメージだったんだが、馬が勝手に飛びやがった」

「それで4分の3馬身差もつけたのか」

 と大迫は、目元だけでニヤニヤしている。

「引っ張るわけにはいかないから、しょうがないだろう」

「まあ、僅差と言えば僅差だがな」

 JRAの職員が、上川に共同インタビューに応じてほしいと頼みに来た。

「わかった。じゃ、久しぶりに爆弾発言でもしてやるか」(次回へつづく)

▼登場する人馬
上川博貴……かつてのトップジョッキー。素行不良で知られる。
キズナ……震災翌日に生まれた芦毛の2歳牡馬。父シルバーチャーム。
杉下将馬…杉下ファーム代表。2010年に牧場を継いだ20代前半。
内海真子……大迫厩舎調教助手。安藤美姫に似ている。
大迫正和……美浦トレセンのカリスマ調教師。
後藤田幸介……大阪を拠点とする大馬主。

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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