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第24話 屈辱

  • 2012年11月12日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市の杉下ファームは、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われた。代表の杉下将馬が救い出した牝馬は牧場に戻って牡の仔馬を産み、息絶えた。仔馬は「キズナ」と名付けられた。美浦の大迫調教師とともに訪ねてきた後藤田オーナーによって1億円で購入されたキズナは、かつての一流騎手・上川を鞍上に迎え、2歳のデビュー戦を勝った。次走は秋の重賞で、超大物と言われるライバルと対決した。

『屈辱』

 決勝戦を通過した瞬間、自分と三好の体は真横に並んでいた。ちょうどキズナが四肢を伸ばし切ったところでゴールしたはずだが、しかし、キズナよりマカナリーのほうが体が大きいぶん、差し届かなかったかもしれない。

 三好の様子をうかがうと、馬上でまっすぐ前を見つめている。彼の性格からして、自分が出ていると思ったら、こちらに笑顔を向けるはずだ。

 ――やつも確信が持てないのか。

 検量室前に戻った上川は、1着馬用と2着馬用の枠場の間で馬をとめ、下馬した。

「勝っていますか?」

 担当の内海真子が青ざめた唇で言った。

「すぐにわかる」

 検量室に入ると、大迫が、他の調教師や騎手たちとモニターに映し出されるリプレイを見上げていた。

「GIならともかく、これは同着でいいだろう」

 という声が聞こえてきた。

 大迫は視界の端で上川をとらえているはずだが、目を合わせようとしない。

 ホワイトボードには、写真判定であることを示す「写」の文字があり、マカナリーの馬番「2」がキズナの「1」より前に書かれている。これは、写真判定の結果が出る前の時点で、決勝審判がマカナリーのほうが優勢だと判断したことを意味している。

 上川は敗戦を覚悟した。

「2番、マカナリーだ!」

 と誰かが叫んだのと同時に、JRAの職員がホワイトボードの1着のところに「2」と書き込んだ。

 マカナリー陣営がドッと沸いた。クールな受け答えで知られる調教師の藤川が満面の笑みで三好と握手をしている。目元を拭っているのは担当厩務員だろうか。

 その様子を見て、彼らが決して「受けて立つ」立場でこの一戦に臨んでいたわけではなかったことを悟った。

 と同時に、そこまで相手に恐怖感を与えていたキズナを信じ切ってやることができなかった自分を情けなく思った。相手の力を封じようなどとせず、自分の力を出すことだけに徹していれば結果は違っていたかもしれない。

 大勢の関係者に囲まれたマカナリーは枠場を離れ、口取り撮影へと向かった。真子に曳かれたキズナは、厩舎につながる正面の馬道をゆっくりと歩いて行く。

「後藤田オーナー、すごい形相で帰って行ったぞ」

「勝ったと思って馬主席から降りてきたら、これだもんな」

 という記者たちの声が聞こえてきた。

 最終レースで騎乗馬のない上川が帰り支度をして検量室を出ると、記者たちに何重にも囲まれた。こういうときは、どこを見て話せばいいのだろう。よく知っている記者の顔を見ながらでは感情的になってしまうかもしれないと思い、このとき初めて顔を見た記者の目を見つめながら切り出した。

「相手を意識しすぎたおれのミスだ。勝てるレースだった。残念、以上」

 と歩きだしたら、新馬戦のとき代表質問をしたアナウンサーの声が追いかけてきた。

「でも、賞金を加算できたことは大きかったのでは?」

「そんなことで喜んでいい馬じゃないことぐらい、お前もわかっているだろう」

 と振り返ってアナウンサーの顔を見た瞬間、声を荒らげたことを後悔した。いかにもキズナの応援者という、すがるような目をしているものと思っていたら、まっすぐこちらを見据える、プロの取材者の目だった。最近知ったのだが、彼も福島出身で、津波で親族や友人を亡くしたらしい。

「またマカナリーと戦いたいですか」

「当たり前だ」

「もう一度やれば、今度は勝ちますか」

「ああ、何度やっても二度と負けねえ」

 吐き捨てるよう言い、記者たちを振り切って帰路についた。

 翌日は全休日だったが、大迫厩舎の前には大勢の報道陣が集まっていた。

 朝刊で一社が報じていた、フランスから短期免許で来日している一流騎手のエージェントが、キズナ陣営に「乗りたい」と申し入れたということの真偽を確かめるためだった。

 復帰してから、前週乗った馬の様子を見るため厩舎回りをすることを月曜日の日課にしていた上川は、一番最後に大迫厩舎に行った。

 大仲の前に報道陣の輪があり、その中心に大迫がいた。

 上川に気づいた記者たちが一斉にこちらに顔を向けた。

 空気の変化に気づいたはずの大迫はしかし、胸の前で腕を組み、目を伏せたまま、ゆっくりと背中を向けた。(次回へつづく)

▼登場する人馬
上川博貴……かつてのトップジョッキー。素行不良で知られる。
キズナ……震災翌日に生まれた芦毛の2歳牡馬。父シルバーチャーム。
マカナリー……翌年のクラシック候補と言われるディープ産駒。
三好晃一……マカナリーに乗る若手騎手。
大迫正和……キズナを管理する、美浦トレセンのカリスマ調教師。
後藤田幸介……大阪を拠点とする大馬主。
藤川……GIをいくつも勝っているリーディングトレーナー。マカナリーの管理者。
杉下将馬…杉下ファーム代表。2010年に牧場を継いだ20代前半。
内海真子……大迫厩舎調教助手。安藤美姫に似ている。

※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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