スマートフォン版へ

第25話 再戦

  • 2012年11月19日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市の杉下ファームは、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われた。代表の杉下将馬が救い出した牝馬は牧場に戻って牡の仔馬を産み、息絶えた。仔馬は「キズナ」と名付けられた。美浦の大迫調教師とともに訪ねてきた後藤田オーナーによって1億円で購入されたキズナは、かつての一流騎手・上川を鞍上に迎え、2歳のデビュー戦を勝った。しかし、次走の重賞で、超大物と言われるライバルに惜敗した。

『再戦』

 大迫は、無言で背を向けたまま足先でボロを砕いている。

 上川の脳裏を「乗り替わり」という言葉がよぎった。

「次は朝日杯だ。後藤田オーナーの了承も得ている」

 ボロを検分しながら大迫が言った。その言葉は、上川に向けられたものだった。

「朝日杯って……、乗り役は?」

 と上川が訊いた。

「お前に決まっているだろう」

「じゃ、スリヨンからのオファーを断ったのか」

「後藤田オーナーは、外国人力士が上位を占めて人気が落ちた相撲界を、競馬界が追いかけるようなことはしたくないそうだ」

 確かに後藤田の所有馬に外国人騎手が乗っているのを見たことがない。

「テキ、あんたはどうなんだ」

「スリヨンのほうがキズナの力を引き出してくれると判断したら頼んだかもしれないが、そうは思わない」

 言いながら体をこちらに向け、足元のボロを見て首を傾げている。獣医師でもある彼は、自厩舎の馬のボロの状態をこうして確かめるのが癖になっているのだ。

「それは光栄だ」

 とぶっきらぼうに言った上川は、騎手生命が危ぶまれたときも、また、関東にベースを移して実戦に復帰してからも、ずっと大迫の世話になってきた。

 いつも力になってくれた大迫に対し、上川はひとつ、心に決めたことがあった。

 それは、自分が言うより先に、大迫のほうから「ありがとう」と言わせる、ということだ。

 驚異的な勝率で勝ち星を量産している大迫だが、いまだGI勝ちがないということで、その手腕を疑問視する向きもないわけではない。

 そんな大迫にとっての初GIは、自分がプレゼントしてやりたいと思っていた。大迫とて、かつてのスタージョッキーの境遇にただ同情して手を差し伸べたわけではないはずだ。

 大迫自身のために上川を利用した、という結果になるよう、騎乗で答えを出す。それが自分にできる唯一の恩返しだと思っている。だから今は大迫に「ありがとう」とは言わない――。

 翌朝も大迫厩舎に大勢の報道陣が押し寄せた。

 朝刊各紙を見て、なるほど、と思った。

 キズナが朝日杯に向かうことを知ったマカナリー陣営が、次もまた、キズナにぶつけるために朝日杯を目指すことにしたという。

「若駒のうちに力関係をハッキリさせ、もうウチの馬には勝てないと、向こうの馬に思わせたい」

 と藤川がコメントしている。

 捕食動物から逃げて生き延びるDNAを持つサラブレッドは、群れで逃げるとき、その馬(=ボス)より後ろで走っていれば食われずに済む、と思い込んでいるかのような走りをするケースが実に多い。馬が相手の馬を覚えていて、抜いてはいけないと思い込んでブレーキをかけることもままある。

 それを今のうちにキズナに刷り込んでおこうと藤川は目論んでいるわけだ。

 厩舎の事務所に行くと、大迫が誰かと携帯で話をしていた。

「……はい。中3週でもこちらは充分なくらいです。向こうは、上がりの感じを見たところ、かなり無理をしているようです」

 どうやら相手は後藤田オーナーのようだ。

 電話を終えた大迫は、自らの腿を両手でピシャッと叩いて立ち上がった。

「上川、オーナーからの伝言だ」

「なんだよ」

「ミスしたからといって乗り替わりさせないのが自分のやり方だ。お前を今後も起用しつづける。その代わり、次は勝て、とのことだ」

「お、おう」

「この2戦でずいぶんキズナに力が溜まってきている。攻め馬でもっと溜めておいてやるから、次はそのすべてをぶっ放せ」

「わかった」

     *

 一年の総決算となる有馬記念を翌週に控えた、2歳王者を決める朝日杯フューチュリティステークス当日。

 杉下将馬が中山競馬場の検量室前に行くと、後ろからポンと肩を叩かれた。

「久しぶりだな。元気だったか、男前」

 という声の主は、Gマネジメントの育成厩舎長の横川だった。笑うと四角い顔が、さらに四角くなるように感じられた。

 隣に立つ、イヤリングマネジャーの小山田が右手を差し出した。将馬が握ろうとするとスッと手を引っ込め、笑った。

「握手は、勝ってからにしましょう」

「そうですね」

「それにしても、なんでまた、よりによって大外の16番枠なんか引いたんだべか」

 福島の浜通り訛りで横川が言った。

「うちの社長は、中山のマイルは、10番枠より外に行くと、枠番がひとつ増えるごとに1馬身ずつ不利になっていく、と言っています」

 と小山田が苦笑した。

「そんなに違いますか……」

「相手のマカナリーは1番枠。ちょうどいいハンデだ」

 いつのまに横に来たのか、別の馬主の勝負服を着た上川が鞭の素振りをしながら言った。横川と小山田が上川に会釈した。彼らは顔見知りらしい。

 上川がつづけた。

「いつもの髪の長い女はどうした?」

「夏美さんですか」

「名前は知らん」

「スタンドにいます」

「バカヤロー。テキに通行証をとってもらって、朝日杯のときには、ちゃんとパドックに入れてやれ」

「は、はい」

「まあ見てろ。きょうは特別3連勝で決めてやるからって、夏美ちゃんに言っとけ」

 その言葉どおり、上川は9レースと10レースの特別を連勝し、メインの第65回朝日杯フューチュリティステークスを迎えた。(次回へつづく)

▼登場する人馬
上川博貴……かつてのトップジョッキー。素行不良で知られる。
キズナ……震災翌日に生まれた芦毛の2歳牡馬。父シルバーチャーム。
マカナリー……翌年のクラシック候補と言われるディープ産駒。
大迫正和……キズナを管理する、美浦トレセンのカリスマ調教師。
藤川……GIをいくつも勝っているリーディングトレーナー。マカナリーの管理者。
杉下将馬…杉下ファーム代表。2010年に牧場を継いだ20代前半。
田島夏美…将馬の高校時代の先輩。馬を扱うNPO法人代表にして、由緒ある神社の禰宜。後藤田幸介……大阪を拠点とする大馬主。日高町に生産・育成牧場「Gマネジメント」を所有する。
小山田……Gマネジメントのイヤリング部門責任者。
横川……Gマネジメント育成厩舎長。南相馬出身。

※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

バックナンバー

新着コラム

アクセスランキング

注目数ランキング