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第29話 どよめき

  • 2012年12月17日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市の杉下ファームは、2011年の東日本大震災で津波に襲われた。代表の杉下将馬が救い出した牝馬は牧場に戻って牡の仔馬を産み、息絶えた。仔馬は「キズナ」と名付けられた。美浦の大迫調教師とともに訪ねてきた後藤田オーナーによって1億円で購入されたキズナは、かつての一流騎手・上川を鞍上に迎えた。一度はライバルに敗れるも、朝日杯FSを制し、翌2014年クラシック三冠の第一弾、皐月賞に駒を進めた。

『どよめき』

 第74回皐月賞の前売りオッズが明らかになった。

 単勝2.0倍の1番人気は3枠5番のヴィルヌーヴ。2番人気は4枠8番のキズナで3.5倍、3番人気は6枠12番のマカナリーで6.3倍、4番人気のトニーモナークは20倍以上の単勝オッズを示していた。

「面白いのは3連単だべ」

「三強の順番を決めなっかなんねえのは難しいけどなあ」

「でもよ、福島県民なら頭はキズナだべ」

「いやあ、ヴィルヌーヴの武原が何かやりそうで怖いぞ……」

 皐月賞の前夜、杉下将馬が南相馬駅近くの居酒屋で遅めの夕食をとっていると、小上がりにいる客たちの話し声が聞こえてきた。

 店長が、カウンターに座った将馬に、

 ――あんたがキズナの生産者だってこと、あの人らに教えようか?

 と目で言っているのがわかったが、将馬は首を横に振った。

 もう少し男たちの話を聞いてみたかったのだ。

 しかし、彼らの競馬談義は馬券の結論には至らず、話題はどんどん逸れて、震災から3年以上経っても復興が進まないことへのボヤキばかりになっていった。

 翌朝、将馬は人の気配で目覚め、枕元の人影にギクリとして飛びのいた。

「な、夏美さん……」

 淡いグレーのワンピースを着た田島夏美が座っている。

「おはよう。ずいぶんな驚き方ね」

「いや、すいません。それにしてもどうして夏美さんが……え?」

 夕べ、たいしてアルコールに強くもないのに日本酒を飲み、運転代行で牧場の自宅に送ってもらってからの記憶がない。

 まさか夏美とおかしなことになってしまったのではと慌ててパンツを確認したら、パシッと頭を叩かれた。

「バッカじゃないの。何か勘違いしているみたいだけど、わたしは今ここに来たんだからね」

「そうか、夏美さんに合い鍵を預けていたんだ。で、どうしてここに?」

 と言うと、夏美は大きく息をついた。

「皐月賞、一緒に見に行きましょうって言ったの、杉下君だよ。あんたのオンボロ軽トラで行くのは大変だから、わたしが迎えにきてあげたの」

「あ、そうですか。助かります」

 出かける用意をして携帯電話を見たら、ものすごい数の着信が残っており、すべてが夏美からだった。その時刻からしてほとんど寝ていないようで、申し訳なく思った。

 滅多に着ないスーツに袖を通し、ネクタイをすると気分が引き締まる。

 真っ赤なBMWを福島方面に向かって走らせながら夏美が言った。

「原発が廃炉になって常磐道が復旧しなきゃ、牧場の再開は難しいんじゃない?」

「そうかもしれないけど、いつでも休養馬や繁殖牝馬を受け入れられるようにしておきたいんで、ぼくはこのまま作業をつづけます」

 もしキズナが休養し、放牧に出ることになったら受け入れる――それが、今の将馬の当面の目標だった。

     *

 パドックで跨ったキズナは、予想していた以上に落ちついていた。

 上川は曳き手綱を持つ内海真子に訊いた。

「おい、装鞍所でひと暴れしておとなしくなった、というわけじゃないだろうな」

「いえ、確かに競馬場に来て少しの間はイライラしていましたけど、発汗するほどではありませんでした」

「それにしては、気持ち悪いぐらいおとなしいな」

「パドックでたくさんのお客さんを見たら落ちついたみたいです」

「普通は逆だがな」

「この仔、杉下さんのところにいたとき、支援物資としてずっと人間と一緒にいたから……」

 という真子の言葉を聞きながら、周囲の馬の様子を観察した。

 後ろのマカナリーは、これまで同様ドッシリとした雰囲気を漂わせている。

 対照的に前を行くヴィルヌーヴは、何度も後ろ脚で立ち上がろうとしたり尻っ跳ねをして武原を煩わせている。が、これに騙されてはいけない。前走も、その前もずっとパドックで暴れてエネルギーをロスしながら圧勝しているのだ。こうしたムダな動きをしなくなったらどれだけ強くなるのかと思うと、恐ろしい。

 ちょっと気になったのは、逃げ馬としては絶好の1枠1番を引いたトニーモナークだ。前走からマイナス10キロという極限の仕上げをほどこされながらも、ゆったりと首を前に伸ばし、大股で歩いている。

 あの馬の好気配に、武原や三好が気づかないわけがない。

 脚質からして三強は比較的近いところでレースを進めることになるだろう。それだけに、一頭だけ離れたところで自分の競馬に徹する実力馬には要注意だ。ちょっとした力の差など、何かの拍子にあっさり逆転するのが競馬だし、中山芝2000メートルというのは、そうした番狂わせの起こりやすい舞台である。

 ――案外、このレースのカギを握るのは柴原さんのトニーモナークかもな。

 ポケットで輪乗りをしながら、上川は周囲の変化を感じていた。2歳のころまで、他馬はキズナの威圧感を恐れて近づいてこなかったのに、人間と過ごす時間が増えて、「対馬」以上に「対人間」として生きるサラブレッドらしくなったのか、キズナが輪乗りの列に加わっても動じる馬が少なくなっている。前走の弥生賞以上にその傾向が明らかなのは、一流馬だけが集まるクラシックの舞台だからだろう。

「お前の馬、右トモ、大丈夫なんか?」

 武原が声をかけてきた。

「こういう歩き方なんです」

「その馬体でようあんな走りをするなあ」

「きょうもそういう走りをしますよ」

「ほう、そりゃ楽しみやわ」

 ファンファーレが鳴り、フルゲートの18頭がゲートに入った。

 ゲートがあいた。

 内枠を利してトニーモナークがすんなりとハナに立ち、得意の「ハイペースの逃げ」の形に持ち込んだ。

 武原のヴィルヌーヴが、やや掛かり気味の手応えで好位につけ、それを斜め後ろから見るように三好のマカナリーが大きなストライドを伸ばしている。

 いつものようにゆっくりとゲートを出たキズナは後方3番手の内につけた。

 馬群は縦長になっており、内にいる馬にとっては外に出す隙間が大きいので、乗りやすい展開だ。それ以上に、上川にとっては、三強のほかの二強をこうして見ることができ、あのふたり、特に武原と離れたところで競馬ができるのは大きなアドバンテージであるように思われた。

 ――よし、これでいい。

 馬群はスタンド前を通過し、1コーナーに差しかかった。

 ほぼそのままの馬順で2コーナーを回り、先頭のトニーモナークが向正面に入ったところで、スタンドがどよめいた。

 ――ちっ、やりやがったな。(次回へつづく)

▼登場する人馬
上川博貴……かつてのトップジョッキー。素行不良で知られる。
キズナ……震災翌日に生まれた芦毛の3歳牡馬。父シルバーチャーム。
マカナリー……クラシック候補のディープ産駒。
三好晃一……マカナリーに乗る若手騎手。
ヴィルヌーヴ……クラシック候補の関西馬。
武原豊和……ヴィルヌーヴの主戦。GI最多勝記録などを持つ、日本を代表する騎手。
トニーモナーク……強い逃げ馬。
柴原……トニーモナークに乗るベテラン騎手。
大迫正和……キズナを管理する、美浦トレセンのカリスマ調教師。
杉下将馬…杉下ファーム代表。2010年に牧場を継いだ20代前半。
田島夏美…将馬の高校時代の先輩。馬を扱うNPO法人代表にして、由緒ある神社の禰宜。内海真子……大迫厩舎調教助手。キズナを担当。安藤美姫に似ている。

※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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