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【特別企画】福永祐一騎手の『私の恩人』(2)―所属厩舎の解散とライバル・岩田康誠の出現

  • 2014年02月06日(木) 12時00分
福永祐一騎手

 福永には北橋厩舎ともうひとつ、第二の所属ともいえた瀬戸口厩舎からのバックアップもあった。北橋と瀬戸口は同じ鹿児島県出身で、年齢も1つ違いの親友という間柄。もちろん、北橋が繋いだ縁である。

 瀬戸口先生は、厳しくも優しい先生でしたね。今とは競馬界を取り巻く環境が違うかもしれませんが、馬主さんから「福永を替えてくれ」という話があったときに、「だったらこの馬、よその厩舎に持っていってください」と言ってくださったこともあったそうです。北橋先生も同じようなことが何度かあったのですが、まさか瀬戸口先生までそんなふうに言ってくださるなんて…。うれしかった半面、ものすごく責任を感じましたね。

 所属していた10年間は、「とにかく結果を出さなくては」というプレッシャーが常にありました。負けても負けても乗せてもらえるということは、そのぶんだけ責任も大きくなりますから。でも、それ以上にいろいろな経験をさせていただきました。1頭の馬を育てていく過程で、調教から競馬まで、全部乗せてもらうことができましたから。今、「馬に競馬を教える」ということについて評価していただける機会が多いのも、北橋厩舎と瀬戸口厩舎での経験があるからこそです。お二人の存在は言葉では言い表せないほど大きくて、もしお二人がいなかったら、とっくにジョッキーを辞めていたんじゃないかとさえ思います。

福永祐一騎手

▲ふたりの恩人、北橋元調教師(左)と瀬戸口元調教師(右)


 06年には北橋が、07年には瀬戸口が、定年により相次いで引退。05年には、自身初となる年間100勝(109勝)を達成したが、06年は88勝、07年は82勝と、微減ながら成績は下降線をたどり、重賞制覇の機会も減っていった。

 07年、最初の重賞制覇となった京王杯SC(エイシンドーバー)の勝利ジョッキーインタビューで発した「これでもうちょっとジョッキーを続けられそうです」というひと言に、その裏にあるどうしようもない焦燥感を感じ取ったことを覚えている。

 北橋厩舎、瀬戸口厩舎の解散で、実際、目に見えて成績が落ちました。そのとき(解散)がくることはずっと前からわかっていたことですから、そこでもっと早く気持ちを切り替えられれば良かったんですけど…。ちょうどそのころ、岩田くんが園田からJRAに移籍してきたんですよね。岩田くんがいい馬に乗ってポンポンと勝っていく一方で、自分はグッと勝てなくなって。こんなんじゃリーディングなんて獲れるわけがないと、ハナからあきらめてしまっていた時期でした。

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