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人と馬の記憶力

  • 2014年09月06日(土) 12時00分


◆日本初の女性騎手・斉藤すみ

 先日、「週刊朝日」編集長の長友佐波子さんと、小学館出版局の文芸編集長のワサやんと久しぶりに集まった。彼らと私は、同じ大学のクラスメートで、それぞれ個別には連絡をとり合っていたのだが、3人で会ったのは10年ぶりぐらいだった。

 特に理由があったわけでないが、とりあえず久しぶりに会おう、という話が最初に出たのは、確か4月のことだった。「じゃあ、○日にしよう」と決めておきながら、「ごめん、外せない打合せがそこにズレた」といったことが2回ほどあり、さらに、台風による悪天候で「きょうはやめておこう」ということもあって、やっと実現できた。

 場所は、『気がつけば騎手の女房』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した作家の吉永みち子さんが経営する品川の店にした。長友さんが吉永さんと親しく、昨年オープンしたそのお店に行ったら料理がとても美味しかったというので、予約から何から、彼女にやってもらった。

 私も吉永さんとはグリーンチャンネルで日本初の女性騎手・斉藤すみをとり上げたときにお会いしており、また、今年から「優駿エッセイ賞」の選考委員でもご一緒させてもらうなど、面識があった。

 その日は吉永さんも店に出ており、私たちと同じテーブルを囲んだ。

 吉永さんの話は面白く、話題が10あったとすると、息子さんの話が2、ワサやんと同じ胆石など病気の話が2、長友さんと共通するテレビ出演や、女性として働くことに関する話が2、私も調べた斉藤すみに関することなど競馬ネタが2、その他もろもろが2という感じで、午後7時半から始まった飯会は午後11時の閉店時間を過ぎても終わらず、それこそ、気がつけば終電の時間になっていた。

 長友さんとワサやんと私は、店を出て、品川駅高輪口のエスカレーターの下で、「そういえば、久しぶりに会ったのに名刺交換してなかったね」と、小雨に濡れながら名刺交換をし、「また会おうね」と別れた。同窓会という感じにはならなかったが、面白い夜だった――

 吉永さんと斉藤すみの話をしていて驚かされたのは、その取材力と、それ以上とも思われる記憶力のよさである。

 吉永さんは、73年に東京外国語大学を卒業したのち、競馬専門紙「勝馬」を発行する立馬株式会社に入社。日本初の女性競馬記者となった。

 しかし、当時の競馬サークルには女性を受け入れる素地はなく、厩舎取材に行っても嘘の情報を与えられたり、ローカル開催の記者席で自社の電話のある場所さえ誰も教えてくれなかったりと、今ならしなくてもいい苦労を山のようにさせられた。

 そんなとき、競馬週刊誌の小さな囲み記事ですみの存在を知った。

 すみは、騎手になるため、髪を短く切り、さらしを巻いて胸を押しつぶし、男装して修業した。それが下乗り(騎手見習)として受け入れられる条件だったのだ。

 昭和11(1936)年に京都競馬場で騎手試験に合格するも、帝国競馬協会から「女性は風紀を乱す恐れがある」として、デビューに待ったがかかった。きっかけとなったのは、東京の新聞に掲載された風刺漫画だった。女性騎手が後続の騎手を見つめるひとコマ漫画で「女騎手出現 追い込みトタンに強烈なウインク」と書かれていた。

 騎手への道を閉ざされたすみはその後厩務員として中山競馬場で働いた。しかし、男に見えるようタバコを吸ったり、男以上の重労働をこなすなどした無理が祟ったのだろう、41年、28歳の若さで世を去った。

 ――斉藤すみさんに比べたら、私の苦労なんてなんでもない。

 と、吉永さんは、その記事の切り抜きを持ち歩き、自らの力にしていたという。

 そして、すみの足跡を追い、89年秋、彼女をモデルとした『繋がれた夢』(講談社)を上梓した。主人公の名は「藤村くみ」となっているが、内容は取材に基づく事実にそくしたものである。

 すみは、騎手になりながらレース出場が認められなくなったのち、新潟競馬場に出張している。そして、競馬場近くの食堂の娘と知り合い、晩年はその娘と中山競馬場の近くで暮らした。

 吉永さんは、何のつてもないところから、その女性を探し当てたのだ。

 新潟競馬場は、65年に現在の場所に移転する前は関屋にあった。競馬場跡地を訪ねた吉永さんは、出入口との位置関係から、すみの通った食堂があったとすればこのあたりだと思われるエリアの民家を一軒一軒訪ね歩き、夕刻、「ここも違ったら東京に帰ろう」と訪ねた家で、その女性の居場所を教えてもらったのだという。

 もちろん、すみの故郷の厨川村(現在の盛岡市厨川)にも、また、盛岡、水沢競馬場にも何度も足を運んでいる。

 そのフットワークもすごいが、どこをどんな順序で訪ね、誰にどんな話をしてもらった、ということを、今でも克明に記憶しており、それを話してくれるのだ。

 話題が相馬野馬追に飛んだとき、相馬氏33代目の相馬和胤氏がかつては柏台牧場の経営しており、長男が行胤氏で……といったこともスラスラと出てくる。

 一事が万事で、そのあたりの事実関係の記憶も完璧なので、すみの足跡を追っていたころの記憶も正確であるはずだ。

 私は、記憶力というのは、人間のいろいろな力のなかでもきわめて重要なものだと思っている。

 何かに応用したり、新しいことを始めたりするとき、すべての起点をつくるときに求められるのが記憶力だからだ。

 馬も記憶力のいい生き物である。肉食獣から逃げて暮らしてきた記憶が遺伝子に刻まれているからか、どこが危険で、どこが安全かを敏感に嗅ぎとり、そして、忘れない。

 それに関して、斎藤誠調教師が面白いことを言っていた。馬は、嫌なことは絶対に忘れないけど、いいことは案外コロッと忘れてしまうのだという。なるほど、「あそこで脚をとられて転びそうになった」ということを忘れてしまうと危ないが、「あの人が美味しいニンジンをくれた」とか「あの人が優しく撫でてくれた」というのは、たとえ忘れてしまっても、平穏に生きていくうえでは、さして問題にならない。

 撫でたあの馬が私のことなどとうに忘れているのかと思うと、ちょっと寂しい感じもするが、まあ仕方がない。

 そのぶん、こちらが忘れないようにするしかない、ということか。

 今月14日、北海道新ひだか町の日高軽種馬農業共同組合多目的ホールで「引退馬ホースサミットin日高」という、引退馬の余生について考える催しが行われるという。

 忘れずに、熱心に活動をつづけている人たちがいるのは素晴らしいことだと思う。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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