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■第16回「過敏」

  • 2015年06月01日(月) 18時00分
【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかり、曾祖父の「ヘン徳」こと徳田伊三郎の末裔ならではの「単機能」の戦い方をする、と宣言した。



 伊次郎は、「カフェバー・ほころび」のカウンターで、この夜、何度目かわからないほどのため息をついた。ウイスキーベースのカクテル「しがらみ」がダウンライトの灯を鈍く反射し、甘い蜜のように見える。

 カウンターの奥では、伊次郎と同年代のマスターが、グラスを丁寧に拭いている。

 さっき、珍しく別の客が来た。これまた同年代とおぼしき男だった。男は、伊次郎と同じようにため息をつきながら黙って酒を飲み、帰って行った。

「ここはため息の墓場だな」

 伊次郎がそう言うと、マスターは白い歯を見せた。

「墓場ですか。ため息が生まれる場所になるよりは、嬉しいです」
「そういうもんかね」と、伊次郎はしがらみを飲み干した。

「親父がよく言っていました。ここを楽しく飲める店にしちゃダメだ、と」
「ほう、どうしてだ」
「楽しさの形、幸せの形というのは人によってそれぞれでしょう。だから、いつ、どんなときでも味わえるわけではない。なのに、それを目指したら、こんな店はあっと言う間に潰れてしまう。そう繰り返していました」
「なるほどな」

「けれども、悲しみや、つらさの形というのは、いつの時代の、どんな人のものでも似ている。だから、そこに向き合う店にしなきゃいけない、と」
「それで先代は、『店名は変えるな』と遺言したわけか」
「だと思います」

「しかし、落ち込んで過ごす場所にしては、料理も飲み物も、味がよすぎるぞ」
「褒めてもらったのは初めてですね」
「そうか?」

「嬉しくて舞い上がっている人は、何を口にしても美味しく感じるでしょうが、そうじゃない人の喉でも自然に通るものを出すようにしています」
「それも親父さんが言ってたのか」
「はい」

「ああだこうだ言う人には見えなかったけどな」
「口だけじゃなく、先に手が出るほうだったので、怖くて従うしかなかったんです」とマスターは苦笑した。

「わからないもんだな、人は。ウチの親父は何も言わない男だったが、死ぬ前、『厩舎で使っている人間は絶対に切るな』とだけ言ってたんだ」
「大事にしていたんでしょうね、その人たちを」
「ああ、そのようだ」と伊次郎が頷くと、マスターがグラスを拭く手を止めた。

「言うべきかどうか迷っていたのですが、先生のところの可愛らしい女性……」
「ん? ウチに可愛い娘なんているか」と伊次郎は首をかしげた。

「髪が茶色く、ハスキーな声の娘です」
「なんだ、ゆり子のことか。彼女がどうかしたのか」
「はい。このところ、わりとよくここに来るんです。人を待っているような感じなんですが、誰も来なくて、ミネラルウォーターだけ飲んで帰られることが多いんです」
「そうなのか」

「思うに、先生を待っているような気がするのですが……」
「おれを? 違うだろう。毎日厩舎で顔を突き合わせているんだから、言いたいことがあればいつでも言える」

 そう答えたものの、思い当たらないことがないでもなかった。彼女が「ムーちゃん」と呼んでいる担当馬のシェリーラブのことだ。

 先日、伊次郎が「単機能作戦で行く」と宣言してから、まず、馬のつくり方を変えた。

 以前は、どの馬もしっかりカイバを食わせて、運動も調教も「もうちょっとやりたい」と人馬が感じるところで止めていた。そうしてエネルギーやモチベーションを馬体のなかに溜めることによって、馬の「走りたい」という気持ちを引き出すことができると考えていたからだ。

 だが、いざレースに行くと、結果が伴わなかった。

 そこで、思い切って方向転換することにした。溜めるのではなく、これ以上細くするとカリカリしすぎて心身が消耗する――というギリギリのところを目指すことにしたのである。

 自分たちの調教技術では、どのくらいのものが馬に溜まっているのか、個々のそれを見極めるのは難しい。が、どこまで細くすると限界なのかを見極めることならできる。

 その手法をとってから、まだ実戦に出た馬はいない。しかし、6頭の管理馬のうち2頭は、1週間ほどで好ましい変化が見られるようになった。宇野が担当するトクマルと、ゆり子のシェリーラブである。

 トクマルは、他厩舎の馬を蹴ったりと、もともと気性的に難しいところがあったのだが、のんびりしていたシェリーラブまでも、まるで馬体の薄皮を剥いだかのように、外部からの刺激に敏感になったのだ。

 2頭とも、急にペットから競走馬になったような感じで、扱いづらくなった。少し前の宇野とゆり子なら、曳き運動すら満足にできなかったと思われるほど、ピリピリしはじめたのだ。

 2頭とも、ちょっとした刺激に対して、鋭く、大きく反応する。

 伊次郎が求めていた姿である――。

 翌朝、馬装を済ませたトクマルは、宇野に曳かれて馬房から出るとき、尾をピッと立てて、周囲を睥睨してから歩き出した。

 ひとつ置いた馬房から出たシェリーラブは、厩舎の引き戸から体半分ほど抜けようとしたところで立ち止まり、ゆり子がいくら曳き手綱に力をこめても動こうとしなくなった。そして、まずは伊次郎を睨み、次に、馬道を他厩舎の数頭が歩いて行くのを見届けてから、納得したように歩き出した。今度は逆に、ゆり子を引っ張るほどの速さである。

 ゆり子は、右腕全体をシェリーラブの胸前に押しつけるようにして、どうにか抑えている。シェリーラブの馬体は前走時より10キロ以上細くなっているのだが、曳き手綱を持つ人間に求められる力は倍近くなったのではないか。

「おい、気をつけろよ」と伊次郎はゆり子に声をかけた。言い終わらないうちに、シェリーラブは後ろ脚で立ち上がっていた。

 弾かれるようにバランスを崩し、すがるようにこちらを見たゆり子と、ほんの一瞬、目が合った。

(つづく)



【登場人物】

■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。近代競馬の黎明期に活躍した「ヘン徳」こと徳田伊三郎・元騎手の末裔。

■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。

■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。

■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。

■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。

■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハートで病的に几帳面。

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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