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■第19回「快感」

  • 2015年06月22日(月) 18時00分
【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかった。改革後の1番手としてシェリーラブが出走し、軽快に逃げた。伊次郎は、ラスト50メートル地点で力を出し切るよう指示したのだが、鞍上の藤村が予想外の動きをした。



 ゴールまであと50メートル。逃げるシェリーラブの外に、豪腕・矢島の馬が並びかけてきた。

 伊次郎が見つめる先で、矢島の馬が頭ほど前に出た。そして、その差を、首、半馬身とひろげようとしていた。

 勝負あったか――に見えたそのとき、シェリーラブに乗る藤村が、拳を素早く交差させるように動かした。

 次の完歩で、シェリーラブの馬体がそれまでより、ほんの少し浮き上がった。

 ――藤村の野郎、手前をまた左に替えやがった。

 左回りのこのコースでは、コーナーを左手前で回り、直線で右手前に替えたらそのままゴールまで走り切るのが普通だ。それを藤村はあえて左に戻した。

 しかし、今さら何をしようと、失速しつつあるシェリーラブと、鋭く伸びてきた矢島の馬とでは、勢いに差がありすぎる。

 伊次郎は、検量室前に降りようと歩き出した。その足が、ゆり子の叫び声で止まった。

「ムーちゃん! ムーちゃん!」
「嘘だろう、おい」と宇野が立ち上がった。
「藤村、藤村ーっ!」と、センさんまで声を張り上げている。

 伊次郎は、我が目を疑った

 シェリーラブが、矢島の馬を差し返そうとしている。

 一度は小さくなったストライドが、また大きくなった。首の使い方も本来のダイナミックさをとり戻している。

 ――左手前に戻した効果か!?

 あと30メートル。シェリーラブが、矢島の馬との差を、首差から頭差へと縮めようとしている。

 あと20メートル。シェリーラブの馬体が、大柄な矢島の馬と内埒との間の狭いスペースを押しひろげるかのように躍動している。

 シェリーラブが矢島の馬に完全に追いつき、首の上げ下げになった。

 藤村は少しでも騎乗馬の鼻先を前に出すため、手綱を長く持って支点を外し、手綱全体を水平に放り投げるような追い方をしている。同じ「豊」という名の中央の天才騎手が15年ほど前からよくやるようになった高等テクニックだ。

 ――あいつ、いつの間にあんな技術を……。

 あと3完歩。藤村がまた、輪投げのように手綱を前に押し出した。

 あと2完歩。尻を鞍に打ちつけた矢島がバランスを崩した。

 あと1完歩。シェリーラブの小さな顔が、外の馬より前に、確かに突き出た。

「ウオオオオオーーッッ!!」と、伊次郎は無意識のうちに雄叫びを上げ、両拳を天に突き上げていた。

 勝った。本当に、勝ってしまった。去年の4月に開業して以来未勝利だった徳田伊次郎の管理するシェリーラブが、厩舎初勝利を挙げたのだ!

 検量室前に立った伊次郎は、自分がどこをどう通ってここまで来たか思い出せないほど興奮していた。

「おめでとう」と、先輩調教師の川上が右手を差し出してきた。以前、宇野の担当馬が彼の管理馬を蹴って騒ぎになったことがある。このレースで矢島が乗って2着に敗れた馬の管理者でもあるだけに、驚いた。握り返すと、皮肉屋で口うるさい印象とは裏腹に、頑丈そうな手をしていた。

 一体、何人に「おめでとう」と祝福され、握手をしただろう。

 藤村が、シェリーラブから飛び降りた。ゴーグルをしたままなのは、涙を隠すためか。

 左手で鞍を抱え、伊次郎に言った。

「指示どおりに乗りました」
「あれのどこが指示どおりだ」
「右手前では、ゴール前50メートルのところで限界でした」

 なるほど、指示どおり、ラスト50メートル地点でバタバタになるイメージではあったわけだ。

「なぜ手前を替えた」
「勝ちたかったからです」
「左手前に替えたら伸びるという保証でもあったのか」

 検量室入口で伊次郎が言うと、藤村はゴーグルを外して素早く顔を拭った。

「はい。あの馬は、左手前だと喜んで走るんです」
「ほう」
「でも、右回りのコースだと、左手前で走る最後の直線にたどり着く前に、嫌気が差して競馬をやめてしまう」

「気づいていたんなら、どうしてレースの前に言ってくれなかったんだ」
「言いたかったんですけど、正しいという自信がなくて……」

 こうして結果を出すまで黙っていたあたり、この男らしい。

 口取り写真を撮るカメラマンも、平場のレースとは思えないほど多かった。

「オーナーは?」と藤村。
「連絡したんだが、来なかった」
「勝つと思わなかったんでしょうね」

「おれだって、そうだ」
「ハハハ」と笑う藤村が頼もしく見えた。

 歩きながら、伊次郎が訊いた。

「距離はどう思う?」
「もう少し短いほうがいいと思います」

 マイルがベストだと思っていたので、意外だった。

「そうか。次はひとハロン短いところを使うつもりだ」
「それがいいと思います。息の戻りからしてスタミナそのものはあるんですけど、気難しいんで、一気に行き切ることができる距離のほうがいいでしょう」

 ふたりのやりとりを、ぶら下がり取材をする記者たちがメモしている。

 シェリーラブのほうを見ると、ゆり子が女性ライターにもらったティッシュで鼻をかんでいる。その女性ライターも、もらい泣きしたのか、目を赤くしている。

「藤村」と伊次郎は声を落とした。

「はい?」
「勝つって、いいもんだな」

 藤村は、前を向いたまま頷いた。伊次郎は言葉をつづけた。

「勝つために、何を言われようが、下げたくもない頭を下げ、なりふり構わず走り回るヤツらの気持ちが、今初めてわかったような気がするよ」

 伊次郎の胸のなかで、確かな重さのある熱いものが、大きくふくらもうとしていた。

(つづく)



【登場人物】

■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。近代競馬の黎明期に活躍した「ヘン徳」こと徳田伊三郎・元騎手の末裔。

■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。鳴き声から「ムーちゃん」と呼んでいるシェリーラブを担当。

■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。

■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。

■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。

■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハートで病的に几帳面。

■矢島(やじま)
人相の悪いベテラン騎手。リーディング上位の豪腕。

■川上(かわかみ)
嫌味だが成績のいい調教師。

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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