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■第24回「迷い」

  • 2015年07月27日(月) 18時00分
【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかり、その1番手としてレースに出た牝馬のシェリーラブが軽快に逃げ切り、厩舎初勝利を挙げた。次に出走したトクマルは最後に外にヨレて2着。急にレースぶりがよくなった徳田厩舎に対し、一流騎手の矢島が「売り込み」ともとれる発言をし、伊次郎を驚かせた。



「どうだ、主戦騎手を考え直してみる気はないか」

 矢島はそう言って仁王立ちした。その鋭い眼光を受けとめながら、伊次郎は、自分の管理馬に南関東一の豪腕騎手が乗るシーンを思い描いてみた。

 ……逃げ戦術をつづけるシェリーラブの鞍上で矢島が鞭を振るう。手綱を絞って馬銜(ハミ)を詰め、右に左にと逆鞭を入れながら、膝を大きく屈伸させ、尻を鞍にドッカンドッカン打ちつける……。

 確かに豪快である。が、藤村が乗ると自ら走っていた馬が、矢島を背にすると無理やり走らされているような感じだ。そもそも矢島は、シェリーラブが左手前の走りを好むことに気づいているのだろうか。

 こんな三流厩舎の馬に矢島が乗るなど想像したこともなかったせいか、トクマルも、アサヤケも、そのほかの馬たちも、手が合うようなイメージは湧いてこない。しかし、その一方で、鈍さが目立つ管理馬に、藤村には求めたこともなかった刺激を矢島が与え、劇的な変化をもたらしてくれるのではないかという、大きな期待感が自然とふくらむ。

 ――こんな期待感を持たせてくれる騎手は、日本にこの男しかいない。それは確かだが、あの当たりのキツさから来る刺激は、今のうちの馬たちに、はたしてどのくらい必要だろうか。

 考えているうちに頭に血が上り、頬が熱くなっているのがわかった。

「おい、そんな赤鬼みたいな顔して睨むんじゃねえ」と矢島。
「前にも言いましたが、地顔です」

「ま、それはいいとして、これからも藤村を育てながらやっていくつもりか」
「はい」と、自分でも意外なくらいすんなりと返事が口をついて出た。

「おれが乗るとなると、お前のところに所有馬を預けようという新規の馬主が確実に増えるぞ」
「なるほど、そうでしょうね」

 こうした強引かつ自信満々の営業も、矢島をトップジョッキーの座に押し上げる力になっているのだろう。

「トクマルの外へ逃げる癖も、シェリーラブの偏った体の使い方も、おれが矯正してやる」
「シェリーラブの癖、知っていたんですか」
「当たり前だ。おれを誰だと思っている」

 矢島がそう言ったとき、競馬場の職員が何か言いたげに立っていることに気がついた。ここで睨み合いをつづけられると、ほかの関係者の邪魔になるからよそでやってくれ、と言いたいのか。

「矢島さんほどの騎手にそう言ってもらえるのはありがたいですが、藤村が自分から降りたいと言うまでは、主戦として使いたいと思います」

「そうか。なら仕方がないが、調教だけではつかない筋肉をレースではつけられるように、調教だけでは矯正できない癖がある。その方法論を持っているのはおれだけだ、ということも覚えておけ」

「……はい」

 伊次郎が答えると、矢島はくるりと背を向け、困り顔で突っ立っていた職員の肩をぽんと叩いて検量室の奥へと消えた。

 誰に対しても偉そうな態度をとってはいるが、職員の肩を叩いたのは「すまなかった」という意味だろう。何も考えずに追いまくる獣のようなイメージを抱いていたが、広く深く、さまざまなアプローチで考えを巡らせながら、気配りも忘れない。

 術中にハマってしまったのかもしれないが、今、伊次郎は、矢島に一度は乗ってもらいたい、と思っている。

 ――そうか、2頭出しすれば、1頭は矢島さんに乗ってもらえるのか。

 逃げ戦術をとっているのに2頭出しするのは、競り合って共倒れする道を選んでいるようなものだ。が、この思いつきには、それでもいいからやってみたいと思わせる、妙な引きの強さがあった。

 そんな伊次郎の気持ちの揺れを知ってか知らずか、検量室から出てきた藤村が、顔をこわばらせて会釈し、走って行った。

(つづく)



【登場人物】

■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。近代競馬の黎明期に活躍した「ヘン徳」こと徳田伊三郎・元騎手の末裔。

■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。鳴き声から「ムーちゃん」と呼んでいるシェリーラブを担当。

■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。

■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。

■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。

■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハートで病的に几帳面。

■矢島(やじま)
人相の悪いベテラン騎手。リーディング上位の豪腕。

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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