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■第27回「フェイク」

  • 2015年08月17日(月) 18時00分
【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は大胆な厩舎改革にとりかかる。まずは牝馬のシェリーラブが厩舎初勝利を挙げ、次に出走したトクマルは惜しい2着。急にレースぶりがよくなった徳田厩舎に売り込みをかけてきた一流騎手の矢島を、伊次郎は初めて起用した。が、矢島は、藤村が乗る僚馬に激しく競りかけていく。



 1枠1番から出た藤村豊のシェリーラブが、内埒沿いを軽快に飛ばす。首ほど遅れた外には、5枠6番、矢島力也のクノイチがつけている。クノイチは、鞍上の激しいアクションに応えて首を大きく使い、力強い脚さばきで砂を蹴り上げている。

 これら2頭の徳田勢は、3番手以下との差を2馬身、3馬身とひろげながら、1コーナーに差しかかろうとしていた。

 伊次郎が矢島とクノイチの「異変」に気づいたのは、そのときだった。

 ――矢島さん、あんた……。

 矢島は、クノイチの背で上体を大きく揺すり、手綱をしごいている。さらに、鞭を右に左にと持ち替えながら空に「8」の字を描くように振り上げ、1コーナーから2コーナーへと進んで行く。

 しかし、クノイチ自身はどうかというと、馬銜が外れてリラックスし、全身をスムーズに収縮させながら、ゆったりと四肢を伸ばしている。

 ――矢島さんは、追っている「ふり」をしているのか。

 手綱をしごいているように見せているが、実は、手のひらのなかで手綱を滑らせ、肘の屈伸を繰り返しているだけだ。振り下ろした鞭は、まったく馬体に当たっていない。

 矢島の派手なアクションは、彼一流のフェイク――相手を惑わすための動き、なのである。

 伊次郎は、クノイチが序盤から行きたがるよう調教した張本人だ。鞍上があんなに急かさなくても、馬が自分から前へ行こうとするのはわかっている。

 その伊次郎でさえ、矢島の動きに騙された。いわんや後続の騎手たちにおいてをや、である。

 この競馬場のダート1500メートルのコースは、構造上、ほかの距離より速い流れになりやすい。ゲートから1コーナーまで400メートルと充分な距離があり、全馬がある程度スピードに乗ってコーナーに進入するからだ。

 100メートル短い1400メートルのほうが速い流れになるのかと思いきや、ゲートから1コーナーまで300メートルしかないので、各馬が無理なポジション争いを自重し、流れが落ちつきやすい。

 逆に、100メートル長い1600メートルはどうかと言うと、引き込み線のゲートから1コーナーまで500メートルもあるため、ポジションが定まってからコーナーに入ることになり、やはり流れは緩くなる。

 つまり、中間の距離の1500メートルだけがハイペースになる傾向があるのだ。

 矢島は、それを逆手にとった。

 速い流れのなかハナにこだわって自滅しそうなふりをして、後ろを油断させたのだ。

 ほかの騎手たちはみな、矢島が藤村から徳田厩舎の主戦の座を奪おうとしていることを知っている。それもまた、矢島が乱ペースに巻き込まれても不思議ではないと思わせる要因になっていた。

 シェリーラブとクノイチが向正面に入ったとき、後続の10頭に乗る騎手たちの手が一斉に動き出した。自分たちの体内時計が矢島のフェイクによって狂わされていたことに気づいたのだろう。

 矢島がこのように「追っているふり」をしたり、逆に、後ろに重心をかけて頭を揺らし「引っ掛かっているふり」をすることがある――というのは、古い関係者やファンの間ではよく知られた話だ。が、あまり頻繁にこれをやると、周囲に「またか」と悟られ、効果がなくなる。つまり、矢島がフェイクを使うのは、「ここぞ」というときだけなのだ。

 それだけ矢島はこの一戦を重視しているのだろう。それはまた、彼がクノイチを高く評価している、ということでもある。

 彼は、「この一戦だけ勝てば、次走以降はどうなってもいい」という競馬をする騎手ではない。ゆり子が不満げに言っていたように、レー中に騎乗馬をテストし、課題をクリアできるかどうか試すことがあるのは、先々を見据えているからだ。

 間違いなく、名手・矢島力也は、今、クノイチの次走、いや2走先、3走先を意識して乗っている。

 ――矢島さん、あんた、一体どんな絵図を描いているんだ?

 彼が描いた絵図を完成させるには、ここを勝つことが必須条件となり、だからこそ、とっておきの「技」を駆使したのだろう。

 伊次郎は、横に座るセンさんの様子を伺った。

 矢島の真意に気づくことなく、クノイチがついて行くのがやっとだと思い込み、渋い顔をしているのかと思いきや――。

 センさんは、ズボンをぎゅっと握りしめ、こちらに顔を向けた。かすかに潤んだ目には、伊次郎がこれまで見たことのない強い光がある。

 ――センさんも気づいたか。

 伊次郎の心の声が聴こえたかのように、センさんは頷いた。

(つづく)



【登場人物】

■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。近代競馬の黎明期に活躍した「ヘン徳」こと徳田伊三郎・元騎手の末裔。

■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。鳴き声から「ムーちゃん」と呼んでいるシェリーラブを担当。

■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。トクマルを担当。

■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。

■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。クノイチを担当。

■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハートで病的に几帳面。

■矢島力也(やじま りきや)
人相の悪いベテラン騎手。リーディング上位の豪腕。

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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