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■第30回「魔」

  • 2015年09月07日(月) 18時00分
【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかる。まずは牝馬のシェリーラブが厩舎初勝利を挙げ、次に出走したトクマルは惜しい2着。急にレースぶりがよくなった徳田厩舎に売り込みをかけてきた一流騎手の矢島が、センさんの担当馬クノイチで勝った。しかし、矢島はクノイチの適性のアンバランスさを指摘した。



 伊次郎が矢島と「カフェバー・ほころび」で語り合った翌月――。

 センさんが厩舎の周りでクノイチを曳きながら「津軽海峡冬景色」を口ずさんでいた。矢島を初めて鞍上に迎えたダート1500メートル戦につづき、ダート1400メートルのコンビ2戦目でもクノイチは勝利をおさめた。さらにレース後、矢島が「次は重賞で3連勝を狙える」とコメントしたものだから、上機嫌になって当然だ。

 かつて「南関東でもっとも馬の扱いが下手な男」と呼ばれたセンさんが、今や「南関東でもっとも長時間曳き運動をする男」とも言われるようになっていた。いつも演歌を歌いながら歩いているのだが、レパートリーは百曲以上に及び、しかも抜群に上手い。染みついた南部訛りのせいで、「私」が「わだす」に聴こえるのはご愛嬌。ほかの厩舎の人間たちばかりでなく、馬たちまでもセンさんの美声に聴き惚れているかのように耳を向ける。

 大仲にいても、歌声で、センさんがどのあたりにいるかわかる。

「お、仙石さんが戻ってきたぞ」と、今まで伊次郎に管理馬の状態とローテーションについて質問していた記者たちが出て行った。

 2、3カ月前まで、この大仲に記者が集まり、人いきれでムンムンすることなど考えられなかった。それだけに恐ろしい、と伊次郎は思った。彼らが新たにここに来たということは、それまで通っていたどこかの厩舎がガランとしているわけだから。

「先生、これ壁に掛けていいか」と宇野が手製の掛け軸を持ってきた。
「なんだそれは」

「おれたちへの戒めだ」とひろげた軸には、荒々しい書体で「好事魔多し」と書かれている。「魔」がほかの字より大きく書かれたそれは、宇野の筆によるものだ。プロの書家にも認められるほどの腕の持ち主であることを、付き合いの長い伊次郎も、つい最近まで知らなかった。

 宇野が担当するトクマルも、藤村を背に勝利を挙げたばかりだった。

「ほら、この厩舎がこんなに勝つなんて、ちょっとおかしいからよ」と宇野。
「もうちょっと前向きな言葉は思いつかなかったのか」
「前向きじゃダメなんだよ。自分たちのせいで最低の悪循環にハマっていた『後ろ』を振り返らなきゃ」

 問題児だった宇野も、このごろはきわめてまともなことを言うようになった。

 伊次郎は、「鬼」の部分が特に強調され、文字どおり顔から湯気を出した鬼のように見える「魔」の文字を見つめた。

 そのときだった。

「誰がそったらこと言っただ!」とセンさんの怒声が響いた。

 センさんは、ドカドカと足音を立てて大仲に入ってきてパイプ椅子に腰掛け、短い脚を組んだ。

「いや、うちの本紙担当が口にしたら、たまたま……」と若手記者が頭をかいた。

「どうしたんだセンさん」と伊次郎が訊いてもセンさんは上を向いて目をとじたまま黙っている。代わりにその記者が答えた。

「ぼくの上司が、『クノイチの走りは南関東のダートよりも中央の芝向きじゃないか』と言ったんですよ。それをたまたま近くにいたクノイチのオーナーが聞いて、中央への移籍を考えたいと……」

「なんだとォ!?」と伊次郎が眉を吊り上げると、記者がひとり、またひとりと後ずさりしながら大仲を出て行った。

 クノイチのオーナーは、伊次郎の父の代から30年以上付き合いがある古株だ。預託料が滞りがちになることも多かったのだが、数少ないお得意様だからと、こちらで負担することもたびたびだった。

 ――あの人がそんなことを言い出すなんて……。

 伊次郎は、考えを整理するため、息を大きく吸い、ゆっくりと鼻から出した。

 大仲にいるのは自分とセンさんだけになっていた。センさんの目尻に、涙がにじんでいるように見えた。

(つづく)



【登場人物】

■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。近代競馬の黎明期に活躍した「ヘン徳」こと徳田伊三郎・元騎手の末裔。

■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。鳴き声から「ムーちゃん」と呼んでいるシェリーラブを担当。

■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。トクマルを担当。

■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。

■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。クノイチを担当。

■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハートで病的に几帳面。

■矢島力也(やじま りきや)
人相の悪いベテラン騎手。リーディング上位の豪腕。

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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