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■第32回「感触」

  • 2015年09月21日(月) 18時00分
【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかる。まずは牝馬のシェリーラブが厩舎初勝利を挙げ、次に出走したトクマルは惜しい2着。急にレースぶりがよくなった徳田厩舎に売り込みをかけてきた一流騎手の矢島が、センさんの担当馬クノイチで連勝した。クノイチを中央に移籍させようという馬主の動きも矢島の協力で阻止した。



 毎朝、馬装前に管理馬の顔を見て、異状がないか確かめる意味で馬体を撫でるのが伊次郎の日課になっている。

 子供のころから、野良犬や野良猫やカラスにまで不思議となつかれ、馬も例外ではなかった。ところが、ここ数日、クノイチだけが体にさわられるのを嫌がり、耳を絞って威嚇するようになった。センさんも、手を噛まれたり、馬体と壁の間でサンドイッチにされたりと、たびたび危ない目にあっている。

 ――これはどういうサインなのだろうか。

 父の時代を含めても、伊次郎に攻撃を仕掛けてくる馬は一頭もいなかった。初めてこうした高ぶりを見せる馬だからこそ、かつてこの厩舎では見られなかった走りのパフォーマンスを発揮してくれるのではないか。

 そうした予感する一方で、苦い記憶が蘇ってきた。中学への通学路にあったペットショップに、看板犬ならぬ「看板亀」がいた。伊次郎が行くと足をバタバタさせて喜んでいたのだが、あるときから急に攻撃的になった。と思ったら、数日後、いなくなっていた。店主に訊くと、死んでしまったのだという。

 誰も見ていないところで何日も泣いた。思い出すと、今でも鼻の奥がツンとする。

 クノイチの変化は、吉と凶、どちらに出るものなのか。

 ――いい変化であることを願うしかない。

 今までのままではダメだ、ということだけは確かなのだから。

 牝馬限定の重賞・レディーススプリント(ダート1400メートル、1着賞金2100万円)に出走する12頭がパドックを周回している。

 徳田厩舎からはクノイチと、「ムーちゃん」ことシェリーラブの2頭出しだ。

 クノイチは矢島に任せればいい。シェリーラブは、今回も逃げるよう藤村に指示すべきかどうか、伊次郎は迷っていた。藤村も迷ってオロオロしているだろうと思いきや、小脇に鞭をはさんで手袋の具合を確かめながら、口元に笑みを浮かべている。そのまままっすぐこちらに来て、言った。

「きょうは、ぼくに任せてもらえますか」

 藤村にそんなことを言われたのは初めてだった。

「おう、もちろん構わない。どうするつもりだ?」
「馬に訊いてください。ぼくもゲートを出てから訊きます」

「ほう」と言いながら、背中に視線を感じた。

 振り向くと、矢島と目が合った。矢島は黙って頷いた。

 ――こっちは心配いらないから、藤村と話してろ。

 言葉にせずとも、そう伝えられたことがわかり、「はい」の意味で右手を挙げた。

 伊次郎と矢島のやりとりを見ていた藤村が言った。

「矢島さんのデビュー戦、大先生の管理馬だったんですね」
「大先生って、親父のことか」
「はい。知らなかったんですか」

 初耳だった。矢島が騎手としてデビューしたのは20年以上前のことだ。伊次郎は小学生だった。

 藤村がつづけた。

「1位入線だったのに、斜行して、最下位に降着になったそうです」と、藤村はシェリーラブの鞍に手をかけて左膝を曲げ、伊次郎を見た。伊次郎に脚を抱えられて馬上に座っても、まだ藤村は話しつづけた。

「でも、大先生は怒らず、『まっすぐ走らないように調教した自分が悪い』と言って、その後も矢島さんを起用したそうです」
「そうか」
「矢島さんは、結局、大先生の管理馬では勝てなかったけど、『そのぶん、きょう恩返しをするんだ』と。で、『このレースにかかるプレッシャーは、お前のぶんまでおれが背負ってやる。だから、好きなように乗れ』と、ぼくに言ってくれたんです」

 藤村がやけに落ちついている理由が呑み込めた。

 伊次郎はオッズ板に目をやった。

 単勝1番人気はクノイチだ。3.7倍。連勝してきた勢いと、それ以上に、一流騎手の矢島が数頭のなかから選び、取材があるたびに「まず負けない」と繰り返してきたことが大きい。一方のシェリーラブは単勝20倍前後を行ったり来たりしている。

 クノイチと、その背に乗った矢島が伊次郎の前を横切った。今朝もクノイチは体をさわらせなかった。

 気性的には前に行きたがるが、体を伸ばしてゲートを出るので本来のストライドにするまで時間がかかり、そのわりに心配機能は今ひとつでスタミナがない。アンバランスを馬の形にしたらこうなる――といった具合で、矢島でなければまともに走らせることはできないだろう。

 パドックから調教師席に向かう途中で、クノイチの馬主の古井戸に声をかけられた。

「どうなんだね、見込みは」
「さあ、わかりません」
「頼りないな。そんなことでは困るよ」

 伊次郎の見立てを、馬券をどれだけ買うかの判断材料にしたかったのだろう。伊次郎は、小さく頭を下げただけで階段を上った。今のクノイチがはたしていい状態なのかどうか、言い切る自信が本当になかったのだ。

 馬道で、矢島がクノイチの首差しを撫でている。手のひらをそっと押し当てたかと思うと、たてがみに指を差し入れ、こするように手を動かす。まるで子供の頭を撫でてやるように――。

 馬場入りし、歓声につつまれて返し馬に入ったクノイチと矢島を見ているうちに、頭がむずかゆくなってきた。

 ――あれは、矢島さんだったのか……?

 親戚から「一族の恥」のように思われていた「ヘン徳」こと徳田伊三郎に、笑うと瓜二つになると言われた伊次郎は、小さいころ、笑うのをやめた。やめようと努力しているうちに、本当に笑えなくなった。

 新人騎手だった矢島が父のもとに出入りしていたのは、おそらく、伊次郎が笑えなくなったばかりのころだ。

 小学生のときから老けていた伊次郎を見た大人は、初対面のとき、みな同じようにピクッとして、戸惑いの表情を浮かべた。「可愛い」などと言われたこともなければ、肩車をされたり、手をつないでもらったこともなかった。が、ひとりだけ、怖い顔をしたお兄さんが、分厚い手でゴシゴシこするように頭を撫でてくれた記憶がある。

 その感触とともに蘇ってきたセピア色の思い出のシーンはしかし、ジャラジャラと金属とプラスチックが当たってこすれる音にかき消された。

 隣に立った男が首から下げているペンやルーペやストップウオッチのせいだ。紺のスーツに黒地に赤い「H」のロゴが入った野球帽。競馬史研究家の鹿島田明だ。

「お邪魔ですか」と鹿島田。

 邪魔だったが、そうとは言いづらかったので、首を横に振った。

「何か、競馬史の新発見でもあったのですか」
「またまた、トボケてもらっちゃ困るなあ。競馬史の目撃者になりに来たんです。歴史というのは過去に封印されているのもではないのです。その厚みは刻々と……」

 伊次郎が人差し指を唇に当てると、さすがの鹿島田も黙った。

 ファンファーレが鳴った。

 鹿島田と反対側に立ったセンさんがゴクンと唾を飲みこむ音が聞こえてきた。

(つづく)



【登場人物】

■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。近代競馬の黎明期に活躍した「ヘン徳」こと徳田伊三郎・元騎手の末裔。

■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。鳴き声から「ムーちゃん」と呼んでいるシェリーラブを担当。

■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。トクマルを担当。

■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。

■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。クノイチを担当。

■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハートで病的に几帳面。

■矢島力也(やじま りきや)
人相の悪いベテラン騎手。リーディング上位の豪腕。

■古井戸富士雄(ふるいど ふじお)
クノイチのオーナー。東京・大田区の有限会社古井戸製作所社長。

■鹿島田明(かしまだ あきら)
競馬史研究家。年齢不詳の変わり者。

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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