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■第33回「別世界」

  • 2015年09月28日(月) 18時00分
【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかった。急にレースぶりがよくなった徳田厩舎に売り込みをかけてきた一流騎手の矢島が、センさんの担当馬クノイチで連勝した。クノイチは、僚馬のシェリーラブとともに重賞のレディーススプリントに出走することになった。



 レディーススプリント(牝馬限定重賞、ダート1400メートル、1着賞金2100万円)のゲートがあき、12頭の出走馬が飛び出した。

 全馬ほぼ横並びの状態から、藤村の乗るシェリーラブが最初の数完歩で頭ひとつ前に出た。そのままスピードに乗り、伊次郎たちが見守る正面スタンド前を通過するときには、1馬身半ほど抜け出していた。

 パドックでは馬任せで行くようなことを言っておきながら、藤村はあえて馬銜を噛ませ、前に行くよう促している。そして今、確かに彼の口から「ハッ」と呼気が出たのがわかった。声でも鼓舞しているのだろう。

 ――あいつもずいぶん変わったもんだ。

 コンビニやスーパーで、店員に頼まれたわけでもないのに棚の牛乳を賞味期限順に並べ替えたりしていた潔癖症も、最近は「症」がとれたようだと、ゆり子が話していた。

 一方、10番という外枠から出た矢島のクノイチは、馬群の外を回らされるロスを嫌い、1コーナー手前でグーンと下げた。

 ――矢島さん、きょうは中団からの競馬ですか。

 どこから動くつもりだろう。3コーナーあたりからロングスパートをかけるのか。それとも、ギリギリまで溜めて直線勝負に持ち込むのか。

 大先輩が乗る僚馬の動きを、藤村はどのくらい意識し、それがどんな動きにつながるのか。

 そう考えると、胸が躍った。

 ――競馬って、こんなに楽しいものだったのか。

 2頭を担当するセンさんとゆり子はどんな様子だろう。確かめようと見てみると、ふたりと同時に目が合った。ふたりとも驚いたような顔をしている。

 ――おれの顔に何かついているか?

 と、伊次郎が声に出さずに目で訊くと、センさんは首を傾げ、ゆり子はまばたきをし、ともに目線をコースに移した。

 馬群が向正面に差しかかった。

 シェリーラブが2番手との差を3馬身ほどにひろげ、単騎で逃げている。

 ややオーバーペース気味か。2番手以下は団子になっている。シェリーラブとそれ以外の11頭は違う流れのなかで競馬をしているかのような展開だ。シェリーラブが初めて逃げ切ったレースもそうだった。

 ――さあ、誰がシェリーラブの首に鈴をつけに行くか。それとも、誰も行かないのか。

 誰も行かないとなれば、シェリーラブに勝機が舞い込む。

 ――いや、行かないのではなく、行けないのか。

 本命馬のクノイチが、前も後ろも見ながらいつでも動ける中団の外目で脚を溜めているのに、先に動くと、自分から餌食になりに行くようなものだ。

 ――まさか、矢島さん……。

 後ろで自分たちが牽制し合っている間に、シェリーラブが逃げ切れるような流れを、あえてつくろうとしているのか。

 いや、そうではない、ということが、3コーナー入口で明らかになった。
 5、6番手の外につけていたクノイチの馬体が、ブルッと震えた。次の瞬間、真っ赤な騎手服と漆黒の馬体がグッと沈み込んだ。

 3コーナーを左に回りながら、クノイチが一気に加速し、シェリーラブの外に並びかけた。

「ウオオオオオーーーッ!」という矢島の咆哮が、伊次郎には確かに聞こえた。と同時に、彼も叫んでいた。
「ウオオオオオーーーッ!」

 怪人ふたりの叫びがかき消されるほどスタンドの歓声が高まった。

 クノイチとシェリーラブが馬体をビッシリ併せて4コーナーを回り、直線に入った。

 徳田勢のワンツーフィニッシュとなった2走前の焼き直しか――と思われたが、さすがに今回は相手が違う。

 クノイチのさらに外から、若手のホープ・小林が乗る鹿毛馬が伸びてくる。その後ろからも4、5頭が凄まじい脚の回転で差を詰めてきた。

 矢島は何度も手綱を持ち直して馬銜の当て方を変え、両膝を大きくひらいて腰を上下させている。そのリズムは、ほかのどの騎手たちよりもゆっくりしている。クノイチの完歩が大きいからだ。

「ダカダーン、ダカダーン」と蹄音を響かせる長距離馬のような走りは、「ダカダン、ダカダン」と小気味いいピッチ走法の馬たちのなかで、別の生き物のように浮き上がっている。

 レース序盤、シェリーラブだけが違う流れのなかにいたように、ゴール前ではクノイチだけが別の時間のなかにいる。

 ダカダーン、ダカダーン、ダカダーン……。大きなストライドをゆったりと伸ばすクノイチは、1完歩ごとに何かを飛び越すように、四肢も首も水平に伸ばしているかに見える。

 その背に張りつくようにしている矢島の騎乗フォームを、伊次郎は初めて美しいと思った。

 クノイチがゴールを駆け抜けた。

 鞍上の矢島は、鞭を右手のなかでクルリと回し、空に向けて突き上げた。

(次週、最終回)



【登場人物】

■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。近代競馬の黎明期に活躍した「ヘン徳」こと徳田伊三郎・元騎手の末裔。

■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。鳴き声から「ムーちゃん」と呼んでいるシェリーラブを担当。

■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。トクマルを担当。

■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。

■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。クノイチを担当。

■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハートで病的に几帳面。

■矢島力也(やじま りきや)
人相の悪いベテラン騎手。リーディング上位の豪腕。

■小林(こばやし)
若手のなかでは飛び抜けた成績を残している騎手。

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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