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なぜ「降級制度」の見直しを? 歴史的経緯と廃止の実現性

  • 2017年02月27日(月) 18時01分


 1月下旬、一部スポーツ紙が「来年夏で降級制度が廃止の見通し」と伝えた。資格賞金510万円以上3200万円以下の4歳馬が、夏季競馬番組(現在は6月から)入りと同時に、下級条件に降級する降級制度は、馬券購入者にとっては、夏の風物詩でもある。競走数の多い500万条件では特に、6月からしばらく、2勝馬にチェックを入れる人も多いに違いない。後述の通り勝率が相当に高く、馬券作戦としても信頼性が高い。ファンにも定着した制度を、JRAはなぜ見直しに動くのか? 今回は歴史的経緯も含めて点検してみる。

5歳でも降級した時代も


 筆者が本格的に競馬を覚えたのは中学1年だった1976年。当時の中央競馬のクラス分けは、新馬・未勝利とオープンの間に300万、600万、900万、1300万の4段階があり、しかも降級は4歳夏と5歳夏の2度。年齢表記は数えだったため、古馬最下級条件戦の表記(5月まで)は「5歳300万、6歳600万、7歳以上900万」。加えて、同じ開催の間はクラスを移動しない規定があり、一般戦を勝った馬が同条件の特別戦にも出走できた。今日、1600万条件戦は週に最低2つはあるが、1300万条件戦は1開催に1つあるかないか。重賞より希少価値の高いレースと言えた。

 クラスを細分化し、降級の機会を2度も設定していた理由は1つ。馬資源が不足していたからだ。日本の競走馬生産頭数は74年に初めて1万頭の大台を突破した。今日よりはるかに多いが、問題は中身。当時はアングロアラブも多く、地方競馬に供給される馬も相当の規模だった。

 76年の中央の総競走数は3038で、出走実頭数(1回以上出走した馬の数)は4451頭。近年は総競走数が決められた枠の3454(開催288日×1日12レース-2。マイナス2はジャパンCと有馬記念当日が11レース施行のため)を完全実施し、出走実頭数は1万1000頭以上。現在の約4割の馬資源で、現在の88%のレースを施行するのだから、頭数の確保は当然、難しくなる。現在は未勝利や 500万条件で馬が多過ぎるのが施行者の頭痛の種だが、当時は真逆の悩みがあった。

 そこで、1頭の馬を高齢まで走らせる狙いで、降級の機会を2度与えた。勝ち星をあげた馬は昇級して強い相手と対戦する。昇級しても戦える馬は少数派で、頭打ちになる馬の方が圧倒的に多い。降級制度は「頭打ち組」への救済策だった。当時は中央と地方の賞金格差が現在より小さく、地方移籍にもメリットはあった。中央側も頭打ちの馬がすぐに地方に移籍されては苦しい状況だったのだ。

馬資源の充実とともに縮小


 80年代に入ると、国内の競走馬資源も徐々に厚みを増し、高齢馬救済の必要性も薄れていった。そこでJRAは、前記の各ルールの縮小に動く。まず、84年のグレード制施行に併せて、クラス編成を簡素化した。83年までは未勝利とオープンの間が400万、800万、1300万、1800万の4区分だったが、84年からは1800万条件が廃止された。準オープンが1開催1競走では、多くの土曜開催は準オープンもなく、編成上、見栄えが悪いのを考慮した面もあったはず。現在のクラス分けも、84年から呼称を変えただけで区分は同じだ。

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1964年1月19日、東京都出身。87年4月、毎日新聞に入社。長野支局を経て、91年から東京本社運動部に移り、競馬のほか一般スポーツ、プロ野球、サッカーなどを担当。96年から日本経済新聞東京本社運動部に移り、関東の競馬担当記者として現在に至る。ラジオNIKKEIの中央競馬実況中継(土曜日)解説。著書に「競馬よ」(日本経済新聞出版)。

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