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【競走馬から競技馬へ】シャーロックと障害飛越に魅せられた女性の物語(2)

  • 2017年04月18日(火) 18時00分
第二のストーリー

▲仲の良かった芦毛の牝馬レンファーラー[88年〜16年]との一枚(写真:細井智恵子さん提供)


(前回のつづき)

現役を退いた今もなお“パートナー”


「今は我儘な面もありますけど(笑)、初めは結構、人見知りが激しかったんですよね。人参やリンゴを持って馬に挨拶しても、こちらに来なかったですから。人見知りなので、反抗するのではなくてじっとしている、黙って我慢しているところがありましたしね。それが段々一緒にいる時間が長くなって、常に私だけが手入れをしたり乗ったりする機会が増えていくと、手入れをしている時に甘える仕草が出てきたり、それまでに見せなかった行動が少しずつ出てくるようになり、向こうからコンタクトを取ってくれるようになりました」

 細井智恵子さんはシャーロックと一緒に試合に出場していたこともあり、互いに一体感を味わい、徐々に絆も深まっていた。

 自宅近くのクラブに馬房の空きがなかったために、1年ほど栃木県の乗馬施設にシャーロックを預け、週末になると栃木通いを続けていたが、参加していた乗馬サークルがほとんど活動休止状態になったこともあり、細井さんは埼玉県入間郡の日本乗馬倶楽部に入会。シャーロックも栃木から移動してきた。これがシャーロックと細井さんの大きな転機となった。

「日本乗馬のF先生に一からシャーロックを見て頂きました。どんどんレベルが上がって、障害馬として良い形になったのはF先生のおかげです。

 自分の馬を持って3年で中障害(飛越競技)に出場したいという目標があったのですが、自分のレベルがまだそこまで行っていなかたので、まずF先生がシャーロックに乗って、毎年日本乗馬倶楽部で開催されている練馬区親睦馬術大会に出場しました」

 シャーロックは、中障害デビュー戦で初優勝を果たした。

「先生に馬のレベルを先に上げてもらって、その間私も練習してレベルアップして、馬に追いついていくという感じでした」

 翌年、同じ大会の中障害飛越競技に、細井さんはシャーロックとともに出場して上位に入賞する。さらにその翌年の同じ大会では、見事に優勝している。

第二のストーリー

▲細井さんを背に障害飛越競技に出場するシャーロック(写真:細井智恵子さん提供)


「試合は年間で2、3回、多い時で4回くらい出場していました。

 F先生は馬に対して優しくて、障害馬だからといって毎回飛ばせるわけではありませんでした。試合の何週間か前に少しだけ調整程度に気持ち良く飛ばせて、気分を上げて試合に向かうんです。私も試合の前の週あたりに試合に見立てた経路を回って、パンパンパーンと飛んで終わりです。それ以外は、もっぱら基礎です。常歩、速歩、駈歩の3種の歩様をとにかくリズム良くやる…その練習をしていました。

 試合では準備馬場、待機馬場、そして競技を行う本馬場と進んで行くのですけど、出番の15分くらい前にF先生が乗ってサーッと障害を飛んで調整をしてもらって、私に乗り替わってパンパンと飛びます。馬も飛べた!という良い気持ちのままリラックスしていましたし、私もドキドキする間もなく本番に臨んで良い感じで経路を回って来ることができました」

 仕事の都合もあって、埼玉県内や近郊などローカル試合への出場がメインだったが、シャーロックと細井さんのコンビは、ほぼ毎回リボン(正式名称ロゼット・6位まで入賞した馬に与えられる)を獲得していた。

 F先生との出会いが、シャーロックの障害馬としての素質を開花させたと言っても良いだろう。

「先生によって、馬は全く変わると思いますね。F先生に巡り合わなかったら、ここまでレベルが上がっていなかったですし、宝の持ち腐れになっていたでしょう。本当に良い先生に巡り合えました」

 細井さんとともに競技会に出場しては颯爽と障害を飛越してきたシャーロックも、20歳を過ぎて引退を考える時期に差し掛かった。

「確か20歳頃、これが最後と思って試合に出たのですけど、まだ行けそうな感触だったので、レベルを落としながら続けました。でもある時リボンをもらいはしたのですけど、以前に比べて軽快さがなくなっていて、そこがもう一杯だというのがわかりました。さらに1度競技に出場すると疲れがドッと出るようにもなっていたので、ここで止めよう、あとはのんびりやっていこうと決めました。シャーロックが21か2の時だったと思います。シャーロックにはもの凄く楽しませてもらいましたし、一から障害馬として作り上げて頂いたF先生は、私的には神ですね(笑)。本当に感謝しています」

第二のストーリー

▲試合で限界を感じ、「あとはのんびりやっていこうと。F先生には本当に感謝しています」


 15年近く過ごした日本乗馬倶楽部から、知人の紹介で茨城県の乗馬施設へとシャーロックは引っ越しをした。

「茨城は美浦トレセンがありますし、獣医さんをはじめ馬のプロがたくさんいますので、自分がすぐに行けなくても対応ができるのが良いですね。シャーロックの年齢を考えると、獣医さんがそばにいてくれた方が良いですから」

 その時々の状況に合わせて預託場所を変え、2015年12月からは牛久市の常総ホースパークがシャーロックの棲家となった。

「常総さんは、シャーロックのように年齢のいった馬を引き受けてくれましたし、管理もちゃんとしてくれています」

 ほぼ毎週末、細井さんは埼玉から茨城までシャーロックに会いに通う。

「10時半くらいに到着して、厩舎を掃除して、お散歩して、お昼ご飯食べさせて、手入れをして、一緒に遊んで、フェイスブック用の写真をカシャカシャ撮影して帰る…そんな感じです」


 シャーロックが懇意にしている芦毛馬がいるのだが、日曜日にはその馬で練習をする会員さんがやって来るので、一緒に馬場に出て乗り運動をする。

「年齢的にも軽い運動だけですけど、かなり元気なんですよね。でも張り切って駈歩をして無理をすると、疲れが後から出てくるので、そこは我慢をさせています。軽く20分くらい運動をして、その後に関さん(常総ホースパーク代表の関崇士さん)が乗ってストレッチをしてもらいます。

 獣医さんにも背中を使って運動しないと老けると言われていますし、鞍を乗せて人を乗せて仕事をするという意識があるから、気持ちが若くいられるのもあると思いますね」

 知人を介して知り合った持田裕之さんからナチュラルホースマンシップを習う機会も得た。

「もし乗れなくなった時に何ができるだろう、ただ放牧とお手入れだけではなく何かコミュニケーションを取る方法はないかと考えていた時に、ナチュラルホースマンシップと出会いました。馬の習性を利用してコミュニケーションを取るのですけど、例えば物見をする原因になっている物体を避けるのではなく、それをちゃんと見て理解させるという感じですね。多少物見はしますけど、何かが飛んできたりしても、それに驚くことが少なくなってきました。馬との信頼関係も築いていけると思いますしね」

 競技会に出場しなくても、細井さんにとってシャーロックは「パートナー」なのだ。

「シャーロックが疝痛になった時は、頭をお腹におしつけてくるんですけど、一緒に過ごす時間が長いと仕草でわかることがあるんですよね。逆に私が熱が出て体調が悪いと、向こうも気を遣ってくれるんです。散歩をしようと馬房から出しても、今日はこの場所だけで良いよとあまり動かないんです。散歩が大好きだから、普段はあっち行ったりこっち行ったりして動き回るのに(笑)。私が体調悪いのをわかってくれているみたいですね」

 以前は競技会で味わっていたシャーロックとの一体感だが、競技馬を引退した今は、違う形で一体感を味わっている。

 4月24日、シャーロックは満29歳を迎える。

「初めはこんなに長い付き合いになるとは想像もしなかったですけどね。

 30歳をクリアしたら次の目標は35歳。そう関さんにもお願いしてあります。年を取った馬をここまで見てくれるところもあまりないですから。それもまたシャーロックの運の強さかなと思います。F先生や持田先生との出会いもそうですけど、シャーロックは本当に持っている馬なんです。だからいつまでも元気で長生きしてほしいですね。

 私もシャーロックと楽しみながら、シャーロックができることを一緒にやっていって、生きるモチベーションを持たせてあげたいですね」

第二のストーリー

▲▼「シャーロックと楽しみながら、生きるモチベーションを持たせてあげたいですね」

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 取材を終えて、再びシャーロックの馬房の前に行ってみた。手にニンジンがないとわかると耳を絞り、目が三角になった。その瞳には、間もなく29歳とは思えないほど、力が宿っていた。

(了)

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北海道旭川市出身。少女マンガ「ロリィの青春」で乗馬に憧れ、テンポイント骨折のニュースを偶然目にして競馬の世界に引き込まれる。大学卒業後、流転の末に1998年優駿エッセイ賞で次席に入賞。これを機にライター業に転身。以来スポーツ紙、競馬雑誌、クラブ法人会報誌等で執筆。netkeiba.comでは、美浦トレセンニュース等を担当。念願叶って以前から関心があった引退馬の余生について、当コラムで連載中。

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