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見えない糸で結ばれていたキクノスパンカー Nさんを守るために現れたスパンカー(3)

  • 2017年12月12日(火) 18時01分

Nさんめがけて駈けてくるキクノスパンカー


第二のストーリー

▲最近のキクノスパンカー、提供:Nさん


 キクノスパンカーが長い年月を穏やかに過ごしたえりも町の牧場の閉場が決まった。スパンカーの預託について、最初に相談を持ち掛けたイーハトーヴ・オーシァンファームの大井昭子氏は既に他界していたが、Nさんは大井氏の馬への熱い思い、愛情が詰まったその牧場に愛馬キクノスパンカーを預託することに決めた。馬を第一に考える人々の愛情に包まれて過ごしたえりも町での15年の日は、スパンカーにとってもNさんにとってもかけがえのないものだったはずだ。スパンカーが健やかに第二の馬生を送ることができた感謝の気持ちを胸に、名門と言われたえりも町の牧場をあとにしたのだった。

 同じ北海道とはいえ、えりも町から白老町までは200キロ弱。馬運車に揺られて移動したスパンカーは、元気にオーシァンファームの地を踏んだ。スパンカーに会いに、札幌から出向いたNさんが到着して当時の牧場長と話をしていると、1頭走ってくる馬がいた。他の馬たちは放牧地で静かに佇んでいるのに、その馬だけがNさんめがけて雪煙をあげながら駈けてくる。額には流星があった。紛れもなくスパンカーだった。

「その姿を見て涙がこぼれました。まるで僕はここに来ましたよって言っているみたいでした」

 ずっと一緒にいたわけではないのに、自分の大切な存在をスパンカーはわかっている。人間が考えている以上に、馬は賢く人の気持ちに応える生き物なのだ。

第二のストーリー

▲キクノスパンカー現役時代のゼッケン、提供:Nさん


 えりも町では1頭ずつの放牧だったが、オーシァンファームでは多頭数での放牧となった。スパンカーは、その中でも自分の世界を持っていた。

「みんなで一緒に放牧地にいるのはいいんだけど、放っておいてくれる? っていうタイプでした。他の馬に突っつかれていましたけどね」

 スパンカーは自らの世界を保ちながら、病気ひとつせずに至って健康にこの地でも過ごしていた。そしてここが終の棲家になるはずだった。

何者かに導かれて繋がってきたようなスパンカーの一生


 ところが2016年12月、年が明けたら牧場を閉鎖するという連絡が入った。突然のことに、Nさんはじめオーシァンファームに愛馬を預託している人々は動揺した。だが閉鎖が決まった以上、新しい場所を探さなくてはならない。そんな中、新ひだか町の荒木牧場に問い合わせると、種牡馬を引退したのちに荒木牧場に預託されていたスキャンが亡くなって、馬房の空きがあった。牧場の荒木貴宏さんもフェイスブックに「スキャンが困っていたキクノスパンカーを連れてきたのだと思っています」と書いているが、スパンカーの一生はまるで何者かに導かれて繋がってきたようにも思える。

 預託馬たちの中でも繋養先が決まるのが遅かったスパンカーが、結果的に1番早い移動となった。Nさんはスパンカーに伝えた。

「1番最後って言ってたけど、1番先に移動することになったからね。生まれ故郷の静内の牧場だよ。馬運車に大人しく乗ってね…そう話をしたら、そんなのわかっているよとでも言うように、鼻をツンと私にぶつけてきました(笑)」

 2月26日、養老馬の聖地・オーシァンファームに別れを告げて、一路、新ひだか町へとスパンカーは向かった。他の預託馬たちも次々新居に旅立っていき、牧場所有の3頭の元競走馬たちが残された。Nさんは、この3頭の今後についても気になっていたが、こちらも紆余曲折を経て、かつてオーシァンファームに愛馬を預託し、自らも牧場の手伝いをしていた浦野正義さんが開設した浦野牧場が終の棲家となった。

「私の理想としてきたものは何であったのか。決して肉にする馬を作ってきたわけではない」(イーハトーヴの仲間たち・イーハトーヴオーシァンファーム会報/平成17年度追悼号)

 大井昭子氏が軽種馬の生産に虚しさを覚え、競走馬や乗馬を引退した馬たちの養老牧場に転換することを決意した昭和58年のことだった。こうして日本初とも言われる養老牧場が創設された。以来、浦河町から登別市、白老町へと場所を移しながら、馬たちの理想郷づくりに大井氏は心血を注いできた。Nさんが聞いたところによると、功労馬助成金(現・ジャパン・スタッドブック・インターナショナルの引退名馬繋養展示事業)の制度化など、引退した名馬たちの繋養制度の制定にも、大井氏の陰の尽力があったという。その大井氏が病のため、76歳で惜しまれつつこの世を去ったのは2004年9月。

 その後も大井氏の意志を受け継ぐべくオーシァンファームは存続されていたが、ついに2017年、理想郷のともしびは消えてしまった。この現実を、天国の大井氏はどのように見ているのだろう。オーシァンファーム以降、いくつかできた馬たちが余生を過ごすための牧場にバトンを渡した…そう安心しておられるのか、それとも無念に思っているのか。いずれにしても、大井氏が灯した馬たちの希望の光を、さらに輝かせていかなければならない。浦野牧場と今回の取材で改めて思ったのだった。

第二のストーリー

▲Nさんもお祝いにかけつけたキクノスパンカー26歳の誕生日、提供:荒木牧場


 荒木牧場に到着したばかりのスパンカーは、隣のブライアンズロマンが騒いでいても堂々としていたという。すぐに環境にも慣れ、新天地での生活は順調だ。

「人に悪いイメージを持っていないので、人にも従順ですしね」

 えりも町の時と同じく、1頭ずつの放牧地が与えられ、広い敷地を走り回って元気一杯だ。

スパンカーがいたからこそ、苦難も乗り越えられたNさん


 そしてNさんとスパンカーの出会いのきっかけとなった生産者も、荒木牧場でスパンカーに再会している。ひとたび牧場を出た馬たちは、生産者の手の届かない存在になることがほとんどだ。その馬とまた再会する。これは生産者にとっても、嬉しい出来事なのではないかと想像する。

 ラジオでたまたま聞いた「キクノスパンカーはいますか?」という生産者の声。そこからスパンカーとNさんの物語は動き出した。その馬がちょうどNさんの住む札幌競馬場に滞在していたという不思議。なぜ惹かれるのかわからないまま、Nさんはどんどんスパンカーにのめり込み、スパンカーの所属する栗東へ、移籍した荒尾へと足を運んだ。そしてついにスパンカーはNさんの愛馬となった。

 Nさんは言う。

「スパンカーは私を守るために現れたのかもしれません」

第二のストーリー

▲仲良く頬を合わせるキクノスパンカーとNさん、提供:Nさん


 スパンカーを守るためにNさんがいるのではなく、Nさんを守るためにスパンカーは現れた。スパンカーと出会い、引き取ってからおよそ21年。その道のりは決して順調だったわけではない。途中、心身ともに厳しく荒波に揉まれるような時期もあった。だがスパンカーがいたからこそ、Nさんは前を向いて歩み続け、苦難も乗り越えられた。これからもNさんは、どんなことがあってもスパンカーとともにある。そしてスパンカーもそれを望んでいる。Nさんの話を聞きながら、そう確信した。
(了)

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北海道旭川市出身。少女マンガ「ロリィの青春」で乗馬に憧れ、テンポイント骨折のニュースを偶然目にして競馬の世界に引き込まれる。大学卒業後、流転の末に1998年優駿エッセイ賞で次席に入賞。これを機にライター業に転身。以来スポーツ紙、競馬雑誌、クラブ法人会報誌等で執筆。netkeiba.comでは、美浦トレセンニュース等を担当。念願叶って以前から関心があった引退馬の余生について、当コラムで連載中。

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