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世界に挑んだサムライサラブレッド ―Part2・ドバイ編―

  • 2018年03月29日(木) 17時00分
世界に挑んだサムライサラブレッド〜Part2・ドバイ編〜

▲ netkeiba Books+ から「世界に挑んだサムライサラブレッド〜Part2・ドバイ編〜」の1章、2章をお届けいたします。(写真:シェイク・モハメド 2006年/高橋正和)


 イギリスやフランスなどヨーロッパでの開催が主流だった世界の競馬界に1995年に参入してきたドバイ首長国連邦。豊富な資金源を使って、競馬界に新たな潮流を生み出した。日本のサムライたちも第1回から果敢な挑戦を続けている。本書ではその軌跡を追う。

(文:『netkeiba Books+ 編集部』)



第1章 競馬への情熱が生んだ世界最高の賞金額

 
 ドバイ・ワールドカップG1。現在の賞金総額は1000万ドル。1995年のレース創設時は600万ドル(1ドル100円として6億円)だったが、それでもケタ違いと言ってもいい当時の世界最高額であり、2017年に賞金総額1200万ドルのペガサス・ワールドカップ(G1)が米国・フロリダのガルフストリームパーク競馬場で開催されるまで「世界最高賞金額」の座を守り続けてきた。現在でも、世界最高レベルの賞金を目当てに世界中からトップクラスの競走馬が集結するビッグレースである。

 レースは、シェイク・モハメド(ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム)というひとりの人物によって創設された。

 1949年生まれ。2006年からはUAE(アラブ首長国連邦)の副大統領兼首相であり、連邦を構成するドバイ首長国のアミール(首長)という立場にあるが、競走馬の世界的なオーナー・ブリーダーとしても知られている。UAEはGDPの約40パーセントが石油と天然ガス生産で占められ、ドバイ・ワールドカップの高額な賞金の背景にあるのもそうしたマネーであるのは間違いない。

 だがシェイク・モハメドは天然資源の枯渇を見越してかなり早い時点から国内でのサービス産業の振興に力を入れてきた。ドバイが今日、世界中から観光客を集める国際リゾートとなっているのは、彼の功績と言ってもいいだろう。そして、サービス産業と並んで彼が力を注いできたのがスポーツ、なかでも競馬なのである。

 サラブレッドの起源がアラブ種にあることは広く知られているが、もともとアラブ民族にとって乗馬は身近なスポーツであり、生きるための術だった。なにしろ2012年には愛馬マジィ・デュポンに乗って、FEI世界馬術選手権エンデュランス馬術部門に出場しているほどだ。この競技は数10キロメートルの長距離を数時間かけて騎乗し、その走破タイムを競う競技であり、シェイク・モハメドはそこで160キロを走破する。

 シェイク・モハメドは語る。

 「私の家系には馬に対する愛情が流れている。馬はアラブ民族によって何世紀にもわたり育てられ、狩り、戦争、アラブ史の象徴として使われたてきたことを忘れないで欲しい。乗馬は単に馬の背中に跨るという以上の意味がある。それは高潔さと騎士道である」

 若かりし頃、シェイク・モハメドはドバイの中学を卒業後、英国に留学。サンドハースト王立陸軍士官学校で学び、卒業時には英連邦の士官候補生主席として評価され、名誉の剣を授与されている。英国の競馬に出会ったのは、この頃だった。

 1967年、18歳のときに兄のハムダンと一緒にニューマーケット競馬場で開催された2000ギニー(G1)を観戦。その10年後には、彼の所有馬ハッタがブライトン競馬場でのレースで初勝利する。そしてその5年後にはもう兄とともに100頭の競走馬と3つの種馬飼育牧場を所有するようになっていた。

 こうしたシェイク・モハメドの競馬に描ける情熱、また行動力の裏づけとなる潤沢な資金もあって、ドバイ・ワールドカップは世界最高の賞金総額を争うレースとして創設されたのだ。

 そしてついに1996年、第1回ドバイ・ワールドカップが開催される。シェイク・モハメド、そのとき齢46。

 この第1回の優勝馬は、米国のシガー。ドバイ・ワールドカップに参戦する時点で1994年から続く連勝は13に伸びており、1995年には米国のダートレースで最高峰と位置づけられるブリーダーズCクラシック(G1)にも勝利していた。

 シェイク・モハメドは、この馬の参戦に強くこだわっていたという。600万ドルという当時の世界最高の賞金額も、シガーを呼ぶために用意されたと言ってもよい。結果、シガーはドバイ・ワールドカップ後も勝利を重ね、最終的に連勝記録を16にまで伸ばした。これは伝説の名馬サイテーションに並ぶ20世紀の米国記録である。

 また、第1回はナド・アルシバ競馬場でダートレース(2000メートル)として開催されたが、シェイク・モハメドは、もともと調教用の馬場として使用されていたナド・アルシバのコースが世界最高のレースに相応しいものだとは考えていなかった。

 そこで用意したのがメイダン競馬場。ナド・アルシバ競馬場に隣接しているが、ホテル・ショッピングモール・映画館などを含む複合商業施設「メイダン・シティ」の中核という位置づけ。いかにもシェイク・モハメドらしい発想である。

 メイダン競馬場は2010年1月に開場し、ドバイ・ワールドカップでも同年の第15回から使用されている。また、この年に賞金総額が1000万ドルへと上積みされた。開場当初は1周2400メートルの芝コースと、1周1750メートルのオールウェザー(タペタ)コースを備え、ドバイ・ワールドカップはオールウェザー2000メートルで争われることとなった。しかし、後にタペタはダートコースに改修されることとなり、2015年以降のドバイ・ワールドカップは再びダートレースに戻っている。

 ここまで、ドバイ・ワールドカップの背景、シェイク・モハメドの競馬へのパッションを簡単に紹介してきた。次章以降は、世界最高レベルの賞金を争ってナド・アルシバで、メイダンで、欧米の強豪馬たちと凌ぎを削った日本調教馬の熱闘を振り返っていこう。


(2章につづく)
「砂の女王」を襲った自然の猛威

▲ netkeiba Books+ から「世界に挑んだサムライサラブレッド〜Part1・ドバイ編〜」の1章、2章をお届けいたします。(写真:1996年ドバイワールドカップ ホクトベガ/今井寿恵)


第2章 「砂の女王」を襲った自然の猛威


 日本調教馬はドバイ・ワールドカップに1996年の第1回から出走している。

 1996年にはライブリマウント、1997年には牝馬・ホクトベガがそれぞれ挑戦している。両馬ともに挑戦の前年に「JRA賞最優秀ダートホース」に選出されている名馬だった。

 前述の通り、ドバイ・ワールドカップは第1回から第14回までダート2000メートルで争われている。

 ライブリマウントの第1回での挑戦は、6着という結果でノーインパクトに終わるが、続くホクトベガは日本国内で「砂の女王」と呼ばれ、大きな期待を背負っての挑戦だった。

 1993年のデビュー以来、ダートで3戦2勝の成績を残していたホクトベガは、4戦目のフラワーC(G3)で芝コースも制覇。さらには同年11月のエリザベス女王杯(G1)も勝利する。しかし、翌1994年は芝で6戦2勝、さらに1995年はダートで1勝したものの芝では10戦0勝に終わってしまう。

 転機となったのは1995年6月13日の川崎競馬場だった。同年から中央と地方競馬の交流が盛んに行われるようになり、川崎競馬場伝統の牝馬限定重賞「エンプレス杯」に出走することになったのだ。

 水溜りが出来て田んぼのような不良馬場で行われたレースだったが、一頭だけ別次元の走りを見せ、2着以下を全て子供扱いにする18馬身差という圧倒的な力を見せつける。「砂の女王」伝説が始まった瞬間だった。

1997年川崎記念 ホクトベガ

1997年川崎記念 ホクトベガ(写真:今井寿恵)



 そこで、1996年に入ると再びダート路線に照準を定める。そしてダート、破竹の9連勝。「砂の女王」としてドバイ・ワールドカップの招待馬となったのだ。同時に、この7歳で臨んだドバイ・ワールドカップは彼女の引退試合となる予定で、レース後はヨーロッパに渡り、一流種牡馬との交配が計画されていた。

 レース予定日の3月29日、ドバイは数10年に1度というスコールに見舞われてしまう。そのため、レースは4月3日に順延。ドバイ・ワールドカップの歴史上、4月におこなわれたレースは、この第2回のみだ。

 この順延がどう影響したかは、わからない。しかし、かつて実況アナウンサーに「女王様とお呼び!」と言わせた名牝馬を悲劇が待っていた。

 最終コーナーから直線に抜けようというところで、ホクトベガは転倒。さらに後続馬に追突され、左前腕節部を複雑骨折してしまうのだ。結果、予後不良と診断され、安楽死の処置を受ける。鞍上の横山典弘騎手は、のちに自分の強引な騎乗が事故を招いたと悔いているが、いくつかの不運が重なった事故という見方もある。のち主催者側は、「馬場のわずかなくぼみに左前脚をとられて転倒」と発表した。

 コース上で安楽死処分を受けたホクトベガの遺体は、検疫の問題で日本に輸送することができなかった。故郷の酒井牧場に建てられた彼女の墓には、遺髪(たてがみ)だけが納められている。

ホクトベガ・データ・データ

ホクトベガ・データ:http://db.netkeiba.com/horse/1990106608/



 ドバイ・ワールドカップ第1回の勝者は、前章で紹介したアメリカのシガー。だが次の第2回の勝者は、シングスピール。アイルランドで生まれ、英国で調教を受けた馬で、生産者・馬主はシェイク・モハメド、その人である。砂の女王の悲運とコントラストを成すように、彼は自らが創設したレースの第2回で早くも愛馬の勝利という幸運に恵まれたのだった。

(続きは 『netkeiba Books+』 で)
世界に挑んだサムライサラブレッド〜Part2・ドバイ編〜
  1. 第1章 競馬への情熱が生んだ世界最高の賞金額
  2. 第2章 「砂の女王」を襲った自然の猛威
  3. 第3章 牝馬トゥザヴィクトリーの軌跡
  4. 第4章 武豊、ドバイ4勝の記録
  5. 第5章 日本に希望を与えたワンツー・フィニッシュ
  6. 第6章 ダートコース復活秘話
  7. 第7章 【付録:アラブ首長国連邦(UAE)競馬場ガイド】 イスラム教国だから、馬券の販売はない!?
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