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世界史から学ぶ競馬(下)

  • 2018年07月25日(水) 18時15分
世界史から学ぶ競馬(下)

▲ netkeiba Books+ から世界史から学ぶ競馬(下)の6章、7章をお届けいたします。


中東生まれのアラブ馬を始祖とし、イギリスで誕生したサラブレッド。その伝説の名馬たちの足跡、そして世界に広がる競馬の熱狂。日本競馬界が誇る碩学が語る競馬への愛は止まることをしらない。下巻では、いよいよ近代の競馬史へと誘っていく。

(文:本村凌二)



第6章 20万人が熱狂した古代ローマ競馬


「ローマの歴史のなかには、人類の経験のすべてが詰まっている」

 これは丸山眞男氏(政治思想史学者:1914〜1996年)が、今から40年ほど前のある対談のなかで語った言葉である。そのなかで丸山氏は、「人類が経験することは全部、すでにローマ史のなかで経験してしまっている。だから、ローマ史というのは、ある意味、歴史ないし社会科学の壮大な実験場だといえる」といった内容の話をしていた。私は大学院生のときにこの対談を読み、深く感銘したのを今でも覚えている。実際、ローマの歴史では、文明の雛形といっても過言ではない完璧なプロセスで、歴史の起承転結が展開されている。

 イタリア半島で生まれた小さな部族国家が、ラティウム(イタリア中央西部地方)を統一し、イタリア半島からやがては西地中海に覇権を伸ばし、カルタゴと戦い、ついには地中海全体を呑み込んで大帝国を打ち立てる。そして帝政期になってから、短く見ても500年近く、1453年に滅亡したビザンツ(東ローマ)帝国まで考えれば、1500年も続いていくことになる。

 ところで皆さんは、『ベン・ハー』という映画をご覧になったことがあるだろうか。1959年に製作された古代ローマを舞台としたアメリカ映画である。このクライマックスが戦車競走。4頭の馬を操って、二輪車を引かせる壮絶なレースが8分近くにわたり、延々と続いている。

 一頭でも大変なのに、4頭を操るなど現代人にはとてもできない芸当だろう。例えばコーナリングでは、内側を走る馬と外側を走る馬で、上手に速度を変えなければタイムロスが生じるし、それぞれの馬の性格も考慮する必要がある。だからこそ、人々は御者の「技術」に注目して観戦した。馬そのものではなく、人に対する興味があったわけである。

 もっとも、馬に荷車を引かせる発想はローマ人の発明ではない。前4000年紀後半のメソポタミアにすでにその痕跡がある。戦車は、世界史の舞台に登場した初めての複雑な武器だった。車両の管理や馬の制御を専業とする戦士の養成には、長い時間と多額の費用が必要とされたであろう。このため、戦車に乗る戦士の気高さや勇気には敬意が払われ、彼らの地位は高まるばかりだった。

 ここにまさしく“武人”というエートスを身につけた人間類型が誕生したのである。

 この出来事は、単に新しい階層の出現のみならず、人間の精神や意識の底流に、まったく新しい観念を刻み込んだ。それは「速度」という観念であり、それを通じて人間は世界の広がりを新たに感知できるようになった。戦車の出現によって、古代国家は旧知の風土を越えて領地拡大を狙う帝国主義に転じることになった。

 もっとも、映画『ベン・ハー』の時代は古代ローマ。それも「パクス=ロマーナ」(ローマの平和)と呼ばれる時代の話である。この頃には地中海世界におけるローマの覇権は確立されており、人々はいわゆる「パンとサーカス」(panem et circenses)という言葉に代表される、空前の繁栄を享受していた。この場合の“パン”は豊富な食糧を指し、“サーカス”は(曲芸ではなく)楕円形の競技場を意味する。そう、戦車競走が行われるサーキットのことだ。

 現代も残るローマ時代の遺跡に「チルコ・マッシモ」というものがある。

 ローマ時代の闘技場といえば、剣闘士興行のコロッセオが有名であるが、ここの収容人数が約5万人だったのに対し、チルコ・マッシモには20万人ほどが観戦した記録がある。ただ、学者のなかには50万人は収容できたと考える人もおり、いずれにせよ、さぞや壮観だったことだろう。チルコ・マッシモの場合もそうだが、当時の競馬場はコーナーが180度の急旋回であり、危険かつスリリングだった。事故に巻き込まれずにレースを終えるのが至難の業だった。

 また、戦車競走は古代オリンピックの花形競技だった点も忘れてはならない。戦車競走は最終日に行われることが多く、それだけに注目の高い種目であり、勝者は大変な名誉を手に入れていた。

 例えば、ローマ時代のこんな碑文が残っている。

 …彼は、24年間で4257回にわたって戦車御者として出走した。
全勝利数1462回。そのうち開演競走で110勝。各組一両競走で1064勝。重賞競走92勝。そのうち、6頭立て競走での3勝を含み300万円賞金レースで32勝…

 このように御者の技量が褒めたたえる内容だが、じつは最も讃えられたのは馬主であった。名馬を所有し、腕利きの調教師や御者を雇える財力こそが勝敗の決め手と考えられていたのだ。そうして賞金が御者ではなく、戦車の所有者の手に渡るようになったローマ時代の賞金配当システムが、今日の競馬を形作っていく。

 もっとも、馬とスポーツの観点からいえば、戦車競走以外で馬が使われたスポーツとしては馬術競技がある。これは近代になってから盛んになったもので、狩りの延長であった。障害を飛び越えるなど、狩りではいかに馬を巧みに扱うかが重要であり、その技術を競い合い、高め合うなかで誕生したのが、サラブレッドである。次章からは、一気に近代競馬の歴史に話を進めていこう。

(7章につづく)
世界史から学ぶ競馬(下)

▲ netkeiba Books+ から世界史から学ぶ競馬(下)の6章、7章をお届けいたします。


第7章 イスラムからヨーロッパに渡った優駿たち


 馬の美しさには筆舌に尽くしがたいものがある。かのレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519年)も、馬の美しさに惹かれ、多くのデッサンを残しているくらいである。

 ここで私は読者の皆さんに一冊の本をご紹介したい。

『世界でいちばん美しい馬の図鑑』という本である。写真集と読んでもよかろう。

 馬は偉大な動物だ。そんな馬の謎を解明しようと、人間は力を尽くしてきた。威厳や美しさ、強い精神を兼ね備えた馬は、数千年にわたり人間によって手を加えられてきたが、家畜化を経てもいまだに本来の野性的な面をさまざまに残している。馬の精神は神秘的かつ慎ましやかであり、そのすべてを理解することは、まだ誰にもできていない。

 このような序文で始まる本書では、原形をとどめている最古の品種であるモウコノウマや遺伝子的にきわめて純粋なアイスランド・ポニー、神話とロマンスに彩られたアラブ、そしてサラブレッドなどなど、80種を超える馬種の進化の歴史をたどるとともに、馬がいかに人間社会にとって重要な役割を果たしてきたかを、美しい写真を交えながら繙いている。競馬ファンならずとも、広く一般の方に一読をおすすめしたい。

 そうなのである。

 馬の品種は、世界を見渡すとおよそ160種におよぶ。そのなかでも、近代にあって重んじられた軽種馬としては3種のオリエント原産の品種が挙げられることが多い。

 イベリア半島のアンダルシアン馬、北アフリカのバルブ馬、そして中東のアラブ馬、である(上述本にも詳しい説明がある)。

 中世ヨーロッパを通じて、ことさら人々が欲しがったのはアンダルシア馬であった。バルブ馬は古代から北アフリカの騎兵に用いられ、イスラム教徒の進出とともにイベリア半島に持ち込まれた。そして、アラブ馬。これこそが純血種と呼べるだけでなく、その優れた資質によって世界中の品種改良に絶大な影響を及ぼしたのである。

 記録に残る限り、イギリスが初めてアラブ馬を(恐らく、戦利品として)輸入したのは1121年のこと。キッカケは、十字軍の遠征だった。

 当時の西アジアのイスラム騎士たちは、ヨーロッパ人が乗る馬を軟弱で劣悪な馬と軽蔑していたらしい。損傷や骨折をしやすかったからである。図体ばかり大きく粗野、もろい骨と固い筋肉のため動きにくいので、イスラム騎兵団の用いるすばっしこい戦法に翻弄されっぱなしだった。しかも、異国の地の疫病にも侵されやすく、食料も多く必要とした。対して、アラブ馬は成育がよく適度な運動をすれば肥えることもなかった。

 そしてもう1点。

 戦場に立ち現れたアラブ馬は牝馬がほとんどだった。イスラム騎士は、牝馬こそが戦場に向いていることを知っていたのだ。これに対してヨーロッパの馬は牡がほとんどだったため、馬が欲情して使い物にならなくなったという記録がある(私はこの説が一番気に入っている)。

 こうしてヨーロッパでは十字軍の遠征以降、中東の馬(アラブ種)の優秀さが認識されるようになり、現在の競馬の原型といえるようなレースが行われるようになる。もっとも、当時はまだ競馬よりも馬上槍試合のほうが人気を集めていた。

 そんな時代に、英国の獅子心王・リチャード1世(1157〜1199年)は競馬に大いなる情熱を傾ける。英国史上、最初に登場する競馬に関する記述はラテン語で書かれた「ロンドン市の描写」に見つけることができるが、それによると、ロンドン市内の市場周辺で競馬のレースが行われたようだ。当時、リチャード1世はまだ国王に即位する前の若者だった。そして、国王に即位するや数頭のアラブ馬を招来し、高額の賞金を賭けた3マイル以上のレースを開催したのである。

 ヘンリー8世(1491〜1547年)も、競馬にひとかたならぬ情愛を傾けた。じつは現在もレースが開催される“世界最古の競馬場”は英国にあるのだが、そのイングランド北西部の都市チェスターにある「チェスター競馬場」は彼の在位中に建設された。左回り・1周1マイル、ほぼ円形の芝コースを備えるこの競馬場は1540年に完成。ここは、歴史を遡ればローマ帝国の要塞が置かれていた土地であった。

 さらにその娘・エリザベス1世(1533〜1603年)も競馬を愛し、幾度も競馬場に足を運び、レースを観戦。そして、16世紀後半には英国内の10数カ所で定期的に競馬が開催されるようになる。こういった英国王室の競馬熱は、現在もロイヤルアスコットに代表される形で脈々と受け継がれてゆくようになる。

 ここで少々の脱線をお許し願いたい。

 私にとって英国で最も数多く足を運んだ競馬場といえば、やはりアスコットである。とくに、1996年9月28日にここで起きたことは忘れようにも忘れられない。

 欧州マイル路線の総決算となるクイーンエリザベス2世ステークスを頂点に7レースが開催されたのだが、この日は同時に、ひとりのジョッキーが全レースで勝利するという前人未到の快挙を成し遂げる歴史的な日ともなった。イタリア人、ランフランコ・デットーリによる「マグニフィセント・セブン」である。

 忘れもしないその最終レース。

 最後の直線コースにさしかかり、デットーリ騎手の馬が逃げ切りをはかる。そこに追いすがる馬がだんだん迫ってくる。満場総立ちになり、天にも響く轟々たる歓声。そのすさまじい轟鳴は私の耳をつんざかんばかりだった。その狂騒のなかをデットーリの馬が先頭でゴール板に飛び込んでいく。

 7戦全勝は競馬発祥国イギリスの300年の歴史のなかでも初めての快挙。あれこそは掛け値なしの歴史の瞬間だった。今でもアスコット競馬場にはそれを記念する一角が設けられている。

(続きは 『netkeiba Books+』 で)
世界史から学ぶ競馬(下)
  1. 第6章 20万人が熱狂した古代ローマ競馬
  2. 第7章 イスラムからヨーロッパに渡った優駿たち
  3. 第8章 サラブレッド誕生
  4. 第9章 ジョッキークラブという“権威”
  5. 第10章 世界に広がる近代競馬の波
  6. 第11章 世界に飛翔する日本競馬
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