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競馬ファンだけでなく病気の人にも届いてほしい ――ガンと闘っている大下智元騎手インタビュー(第1回)【無料公開】

  • 2018年07月19日(木) 18時02分
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▲ダービー当日に京都で引退レースを迎えた大下智元騎手、引退と闘病を語ります


日本ダービー当日、京都競馬場でひっそりと引退レースを迎えた騎手がいる。大下智元騎手(32歳)。JRA通算17勝、11年間のうちJRA未勝利の年は4回を数えた。いっそのこと早々に引退してしまった方がラクだったかもしれない。それでも騎手でい続けることを選んだ彼を突然、ガンが襲った。ステージ4の甲状腺ガンは体を蝕み、手術により視力と声を失うかもしれないと宣告された。そんなどん底から「落ち込んでもしゃーない」と前を向き、レースに復帰、そして引退を迎えた。

「ネットでバッシングの嵐だった」という現役時代から闘病生活、そして騎手復帰を目指す過程をじっくり語っていただいた。「競馬ファンの方だけでなく、病気の人がちょっとでも元気が出たら」と本人たっての希望で全編無料でインタビューを公開します。(取材・構成:大恵陽子)


※インタビューは全3回、7/19、7/26、8/2に順次公開いたします

「馬に乗る人になりたい」3度目の受験で競馬学校合格


──11年間の騎手生活、お疲れ様でした。引退発表とほぼ同時に関西地区で放映されたドキュメント番組「もう1度、騎手になりたい。ガンと闘ったどん底ジョッキー」(関西テレビ)には驚きました。そのことも後ほどじっくりお伺いしたいのですが、まずは一般家庭のご出身から競馬を好きになったきっかけを教えてください。

大下智元騎手(以下、大下) 小学2〜3年生の時、阪神大震災の影響で宝塚記念が京都競馬場で行われるというので、父とその会社の人たちとみんなで競馬場に行きました。大阪府枚方市の出身で、京阪電車で30分くらいの所に住んでいたんです。その時の宝塚記念でライスシャワーが亡くなって、ダンツシアトルが勝ちました。子供ながらに「明と暗があってすごいスポーツやなぁ」って感じたんです。

 それと同時に競馬ってカッコイイなって思いました。とにかく鮮明に記憶に残っていますね。それから毎週のように「競馬場に連れて行って」とお願いしたり、「馬に乗る人になりたい」と言っていたようです。

──京都競馬場には乗馬スポーツ少年団がありますが、そこにも通われたんですか?

大下 小学5年生から入団できるんですが、母親が先を見越した計画があって、中学1年生から通いました。というのも、競馬学校にもし落ちたら高校受験をしないといけません。「あんた、アホやから、中高一貫校を受験して受かったら行っていいよ」って言われたんですよ。一貫校ならそのままエスカレーターで上がれるんで、万が一競馬学校に落ちても大丈夫だろうって考えたらしいです。

 中学1年生から乗馬に通えたんですが、中学3年生の時、見事に競馬学校に落ちました(苦笑)。3回目の受験で合格したのですが、高校に2年間行けたのも楽しかったですね。いい環境で競馬学校受験に取り組めました。

──3回目の受験で! JRAの騎手になりたいという熱い思いがもうそれだけでも伝わってきます。

大下 一番最初に見た競馬がJRAの大レースだったので、当時はJRAしか考えていなかったです。でも実は3回目は受けるかどうするか悩んだんです。いまは入学時の年齢によって体重制限が分けられているんですが、当時は一律で44kg以下。高校2年生になっていたので、体重と成長次第でした。でもすごく受けたくて、なんとかギリギリ体重も維持できて、受験。合格することができました。

──デビューは2007年3月3日、中京競馬場。約12年間持ち続けてきた「騎手になりたい」という夢が叶った瞬間でしたね。

大下 競馬学校に入学できた時はそれがゴールみたいな感じで浮ついていましたが、デビューしてからがスタート。気持ちの切り替えを自分の中でもっとしっかりしておけばよかったなと思います。デビューしてからは、お客さんと柵を挟んでこっち側の人間になったんやなって思いました。関西では僕が一番初勝利が遅かったんですけど、それにより全員が勝ったので同期みんなでご飯に行きました。

──同期には栗東だと荻野琢真騎手、田中健騎手、浜中俊騎手、藤岡康太騎手がいますが、仲がいいんですね。デビュー年は8勝を挙げましたが、徐々に勝ち星は減っていき5年目には未勝利に終わってしまいます。

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▲栗東の同期、左から荻野琢真騎手、田中健騎手、浜中俊騎手、藤岡康太騎手


大下 単純に考えが甘かっただけやなって今は思います。当時、3年目までは減量があったので乗せてもらえていました。でも、3年目になれば下2学年もデビューしています。そういった状況を考えたら、1年目から目立つような活躍をしたり、もっとガツガツした気持ちでいとかなダメなんやろうなって思います。

 あんまりガツガツさがなかったかもしれません。変な言い方になるんですけど、僕、社交的な人見知りなんです(笑)。表向きは明るく振舞うんですけど、自分からはあまり深く入っていけないんです。

「康太とじゃがりこ1箱を食べながら空腹に耐えた」


──このインタビューが始まる前にも私たち(スタッフ)を笑わせてくださったりしたので、明るいキャラクターの方なんだなと感じたのですが、意外です。さて未勝利の年がありながらも、その頃騎乗されたステキナシャチョウとは名コンビでした。本格的にコンビを組まれたのは2012年1月22日、京都4歳以上500万下レースからでした。2着でしたが、どんな印象を持ちましたか?

大下 元々は同期のオギタク(荻野琢真騎手)が逃げて勝っていました。当時、野中賢二厩舎の調教を手伝っていて、乗せてもらえることになりました。僕と野中先生の中には逃げも選択肢としてあったんですが、もしも逃げられなければ無理せず控えることも考えていました。オギちゃんはゲートが上手いから、パーンと逃げるんですけど、僕はそんなに上手い方じゃないと思うんで、バッと出たんですが、周りの方が速かったんです。

 ステキナシャチョウは4カ月ぶりのレースで、「アカン、これ逃げられへん」と思って控えました。道中は行きたがるのをなんとか引っ張ったんですが、最後はいい脚を使ってくれました。そしたら先生が「逃げにこだわらなくていいから、普段の調教もその辺を考えてやって」と任せてくださったんです。

 野中厩舎は乗馬の要素を取り入れています。ステキナシャチョウは調教でも尻っぱねして走っていくなど引っ掛かる馬だったので、ハッキングを取り入れたりしました。そういった乗馬からのアプローチは厩舎の方から教わりながらやっていましたね。どれが正解だったかは後から考えて分かることですが、結果に結びついたこともあり、なおさら嬉しかったです。

──さっそく次のレースとなる2月4日京都競馬でコンビ初勝利を挙げましたね。

大下 ステキナシャチョウには計2勝させてもらって、嬉しかったです。特に東京で勝ったのは後にも先にもこの時だけ。(2012年5月6日、日吉特別)東京で乗るっていうこと自体が嬉しかったですし、そこで勝ったっていうのもただただ嬉しかったです。

──2014年にはマーメイドSで重賞初騎乗。サイモンガーランドに50kgでの騎乗でした。

大下 体重を落とすのがめちゃくちゃしんどかったです。前日に北海道で1頭乗せてもらっていたのですが、海鮮とか焼き鳥弁当とか何も食べることができませんでした。

 (藤岡)康太も函館から阪神への移動やったんですが、アイツ53kg(ディアデラマドレ騎乗、1着)なのに「減量しんどいわ」って言いだしたから、「こっちの方が(斤量)軽いわ」って(笑)。「腹減ったなぁ」って言いながら2人でじゃがりこ1箱を一緒に飛行機でポリポリ食べていました。「あんまり食べ過ぎたらノド乾くからな」「でも塩分だけは摂ろうぜ」って。

──翌年は佐賀で行なわれた霧島賞をカシノランナウェイで勝利しました。

大下 みんなから「よっ! S1ジョッキー!」って言われました。僕、よく知らなかったんですがS1っていう地方競馬の格付けなんですね。この年、佐賀ではエキストラ騎乗もさせていただき、3戦3勝。「お前、佐賀行った方がええんちゃう?」って言われていました(笑)。いい馬に乗せてもらったのもあるし、相性のいい競馬場でしたね。

──勝率100%なんてすごいですね!

大下 藤懸(貴志騎手)から「佐賀の山口勲さんが『Mr.ほとんどパーフェクト』って呼ばれていますが、大下先輩は山口さんより上ですよ。パーフェクトだから!」って言うてました(笑)。去年の夏に4着があったので、最終的に勝率は100%じゃなくなりましたけどね。

──現役最後の勝利も相性のいい佐賀競馬場で2017年7月17日えびの特別をコウユーヌレエフと共にでした。

大下 小倉に滞在していた時に、2歳だったコウユーヌレエフもいて、斎藤先生から「調教に乗れるか?」って声をかけてもらったのが始まりですね。デビュー戦は違う騎手がすでに決まっていたんですが、その後乗せていただきました。

 去年の夏、僕は池添学厩舎で北海道に滞在していたんですが、騎乗依頼をいただき、「行きます!」と北海道から国分恭介と一緒に佐賀へ行きました。恭介はテイエムチューハイで大隅特別を勝って、「よかったな〜北海道から来て勝てて」と2人で話していた記憶があります。

──順番は前後しますが、JRAで最後の勝利はキラービューティでした(2017年5月14日、京都3歳未勝利、サンデーレーシングの所有馬)。どんな思い出がありますか?

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▲JRAでの最後の勝利となったキラービューティでの一戦 (C)netkeiba.com


大下 出走枠に入るかどうか分からなかったんですが、奇跡的に入って乗せていただくことになりました。でも、ネットではバッシングの嵐だったみたいですね。僕はネットは見ないんですが、友達や兄貴から「お前、ネット荒れてるで」って連絡がきました(苦笑)。

 そりゃそうですよね。今やデムーロやルメールなどすごいジョッキーがおるに、「なんで自分の大切な馬に乗るのが大下?」ってなるだろうなと思いました。でも、逆を言えばこれだけ見てくれている人がいるんやってありがたくも思いました。

 いつもそうですが、勝ちたいって気持ちがその分強くなりました。それに人気馬ですし、新馬戦でアルアインの2着にくるような馬だったので、勝てるかもしれへんと思い兄と姪っ子を競馬場に呼んでいたんです。だいぶ私情を挟んでいるので叩かれると思いますが、一緒に口取り写真を撮れてよかったです。滅多にあることではないので、姪っ子の思い出の一つにもなっているようです。

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▲なんとしても勝ちたい一戦で結果を出し、安堵した様子 (C)netkeiba.com


(文中敬称略、次週へつづく)

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