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吉川英治記念館の閉館を知った夜

  • 2018年12月13日(木) 12時00分
 案内されたのは、去年と同じテーブルだった。吹き抜けの上階にあるそこからは汐留の夜景が一望できる。下のフロアには、大きなガラスに面したカウンターとカップルシートが並んでいる。

 焼肉屋で忘年会というと賑やかになるものだが、こうした高級店にやかましい客は少ない。その数少ないひとりになりそうなフロアディレクターのババちゃんは、草野仁さんの仕切りの会だけに、最初のうちはさすがにおとなしくしていた。

「島田さん、吉川英治記念館が閉館するって知ってましたか」

 ディレクターのレイが、口元のビールの泡を指先で拭いながら訊いた。レイは男でババちゃんは女。どちらも正確な年齢は忘れてしまったが、40代であることは確かだ。

「いや、今初めて知った。それ、決定事項なのか」

「来年の3月で終わりです。ほら」

 とレイはスマホを見せた。記念館の公式サイトのトップページに「お知らせ」があり、2019年3月限りでの閉館を告げている。隣のテーブルで肉が美味しいと喜ぶババちゃんの声が、渡り鳥の鳴き声のように聞こえた。

「今からじゃあ、企画を通して番組をやる時間はないっスね」

 とレイはウエイターから赤ワインのグラスを受け取った。

「そうだな。あそこで、息子の吉川英明さんに話を聞くことができてよかった、と考えるべきなのかな」

 グリーンチャンネルのシリーズ特番「日本競馬の夜明け」に「文豪と競馬」という回があり、菊池寛、吉川英治、井上康文、寺山修司を取り上げた。レイが演出で、私が番組ナビゲーター。オンエアは2012年の秋だったから、あれからもう6年になる。

 国民的作家として人気を博した吉川英治(1892-1962)は、馬と競馬をこよなく愛した。根岸競馬場の近くで生まれ育ち、子供のころは騎手への道を夢見たこともあったという。馬券を楽しむファンであり、また、1955年の皐月賞馬ケゴンなどの馬主でもあった。

 青梅の旧吉川邸の敷地内に吉川英治記念館が開館したのは1977年。ピーク時には年間17万人もの来館者があった。それが、開館40年を迎えた昨年には、10分の1ほどに落ち込んでいたという。

 都心からだと車で高速を使っても1時間半ほどかかる。遠いところのロケはパスすることの多いレイも、ここでの撮影には珍しく時間前に来ていた。

「あの番組をつくったとき、吉川英治の没後50年だったんスよね」

 そう言ってグラスを空にしたレイは、吉川英治とその作品に対する思い入れが強かった、いや、今もかなり強いようだ。

 2013年に撮った寺山修司の没後30年記念特番も、レイが演出で、私がナビゲーターだった。

「今年、寺山の没後35年特番をやりそこねたから、40年のときは絶対やりたいな」

「やりましょう。でも、いろんな人が亡くなっちゃいましたね」

 元夫人の九条映子さんも、寺山を競馬場に連れて行った血統評論家の山野浩一さんも、鬼籍に入った。

「没後30年特番のDVD、寺山修司記念館の若い女性学芸員が見て、すごく面白かったって言ってたよ。競馬をほとんどやったことのない人だけど」

「ホントっスか」と嬉しそうに言ったレイが言葉を継いだ。

「そういえば、スシ屋の政のモデルがいたと言われている、渋谷の寿司屋もなくなっちゃいましたよ」

 それも初耳だった。確か三浜鮨と言った。ロケのとき、大将がコハダも握ってくれたのだが、光り物が苦手な私の代わりに、レイが美味そうに食べていたことを思い出した。

「無常ってやつだね」

 ボソリと言ったのは、私の隣で静かに飲んでいた制作のサトさんだった。会うたびに白髪が増え、元サッカー日本代表監督のハリルホジッチに似てくる。

 その向こうに座るプロデューサーのソブさんは、私の著書を映像化しようと言ってくれるのは嬉しいのだが、自分ではなく誰に資金を出させるかのアイデアを次々と出しては、ババちゃんにダメ出しされている。

 斜め向かいにいるキャスターのアヤちゃんにとって、今日が、草野さんのアシスタントとしての公開収録初日だった。偶然にも自身の誕生日だという。こういうタイミングを得られるかどうかも、名前とカラーが大切な職種の人にとっては大きいのではないか。

 23時過ぎに店を出ると、風が一段と冷たくなっていた。

「島田さん、吉川英治を肴に、もう一軒どうっスか」

 そう言ってレイは新橋のほうに歩き出した。

「おれも付き合うよ」

 と目の下のクマを赤くし、さらにハリル化したサトさんが笑った。

 当たり前のように合流したソブさんとババちゃんも一緒に、いつもの赤提灯を目指した。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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