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追悼ウオッカ―いま明かされる名牝の素顔

  • 2019年04月15日(月) 18時00分
ノンフィクションファイル

▲デビュー前から引退までウオッカを担当した中田陽之調教助手 (C)netkeiba.com


64年ぶりに牝馬として日本ダービーを優勝したウオッカが4月1日の午後(現地時間)、配合のため滞在していたイギリスのニューマーケットで蹄葉炎のため死亡しました。GI7勝を挙げた成績もさることながら、ダイワスカーレットとの大接戦を制した2008年天皇賞・秋は名勝負の1つとして語り継がれています。記憶にも記録にも残る名牝は、普段はどんな女の子だったのでしょうか。

デビュー前から引退まで彼女を担当した角居勝彦厩舎の中田陽之調教助手に普段の様子からレースでの裏話までを語っていただきました。さらに、角居師の配慮でアイルランドまでウオッカに会いに行った時の微笑ましいエピソードも登場します。

(取材・構成:大恵陽子)

我を忘れ、ウオッカを置いて帰っていった日本ダービー


――4月はじめ、ウオッカ(15歳)が死亡したという衝撃的なニュースが日本に届きました。デビュー前からご担当されていましたが、聞いた時はどんなお気持ちでしたか?

中田陽之調教助手(以下、中田助手) (角居)先生から聞いた時は、もう絶句するしかなかったです。馬にトラブルはつきものですが、20歳くらいまでは生きてくれるのかな、と思っていました。亡くなったと発表された日は厩舎のみんながそっとしておいてくれたので、助かりました。

 その後、優しく声をかけてくれて、だんだん立ち直っていきましたが、それでも2日くらいはかかりました。ちょうどその週末が担当馬のレースだったので、沈んでばかりでもいけませんでした。

――初めてウオッカを見た時の印象は覚えていますか?

中田助手 「牝馬にしては大きいけど、幅がないな」って思いました。当初は北海道でデビュー予定だったんですが、輸送して熱発したのでレースに使わずに休ませて、帰ってきたら体が膨らんでいました。調教は動いていたので、走るだろうなとは感じていました。

――デビュー戦を勝利し、2戦目・黄菊賞は2着。3戦目の阪神JFを勝ってGI初制覇でした。

中田助手 阪神JFは1勝馬で抽選だったので、「いい競馬をしてくれたらいいな」という思いで見ていました。私にとってはGIを勝つのも重賞を勝つのもこれが初めてでした。当時、厩舎にはハットトリックやデルタブルースなど活躍馬がいたのですが、ウオッカは2歳の頃からそういう馬と併せ馬をしていました。

 GIを勝って3歳になったくらいから堂々としたところが出てきました。同い年のトーセンキャプテンはウオッカが来たらビビッていました。馬同士の上下関係があったのかもしれませんね。

――3歳春は桜花賞でダイワスカーレットの2着。その後、オークスではなく日本ダービーに参戦することが発表されました。

中田助手 オーナーと先生が決められた後に僕は聞きました。桜花賞を勝ったらダービーに行くとは聞いていましたが、負けたのでオークスなのかなと思っていたんです。ダービーの方が挑戦しがいがあるなって感じました。

 ダービーって、なかなか使うチャンスがないですが、やっぱり出走させてみたいものです。父もトレセンで働いているので僕はトレセンで生まれ育って、ずっと「ダービーは特別だ」と感じていましたし、高校生の頃に見たナリタブライアンが勝ったダービーは今でも記憶に残っています。ウオッカを担当したのはトレセンに入って18年目くらいだったのですが、この時がダービー初出走でした。

――中田助手にとって初めての日本ダービーの舞台。牝馬による制覇は64年前、第二次世界大戦中に制したクリフジ以来なく、当時は競走体系も現在とは大きく異なっていました。当日のことは覚えていますか?

中田助手 パドックは人は多いんですが、静かでした。桜花賞は1番人気(1.4倍)で緊張しましたが、その時よりは多少緊張もマシでしたし、馬と一緒にいたので落ち着きました。レースはゲートまでついて行っていて、ゴールに向かって外ラチ沿いを歩いている時にちょうどウオッカが抜け出してきて、勝ったと思いました。

 もうそこからは我を忘れて地下道を降りて行ってしまったんです。だから、最初に馬場でウオッカを受け取ったのは僕じゃないんです(苦笑)。もう興奮してしまって。なんてったってダービーですから。勝ち馬写真を撮るくらいまで記憶は飛んでいて、表彰式でもまだふわふわしていました。僕の父も当時メイショウサムソンを担当していたので、ダービー後は親子で取材を受けたり、年初のJRA賞授賞式には2人で行けて嬉しかったです。僕よりも父の方が嬉しそうでした。

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▲クリフジ以来の牝馬による日本ダービー制覇 (撮影:下野雄規)


――これだけ活躍していた馬ですから、体だけでなくメンタル面でもどんどんと女王様と言いますか、堂々としていったところがあったのではないでしょうか?

中田助手 乗り運動では牝馬グループの先頭を歩いていました。僕は常歩に乗るか、曳き運動を担当していたのですが、周りの人がウオッカだと気づいて振り返ることもありました。ただ、「後ろに近づけたらアカンよ」と言っていました。

 後ろに近づかれるのが好きじゃなくて蹴りに行くんです。馬房の中でもそうでしたね。あと、レース前はなかなか馬房で捕まえられなかったんですよ。逃げるので、時間がない時は手伝ってもらって2人がかりで前後からサンドして捕まえていました。

――ほかにウオッカはどんな性格でしたか?

中田助手 写真を撮られるのが好きでしたね。口取りも(週刊誌などの)立ち写真もすぐにピタッと止まっていました。レース後は写真を撮られないと逆に怒っていたくらい。たぶん、負けたって分かっているんでしょうね。

 あと、5歳頃には牝馬だと言われないと分からないくらい背中が逞しくなりました。牝馬ってどんなに大きな馬でも跨ってみると背中が細いんですが、ウオッカは牡馬みたいでした。

まさかのアイルランドでの再会、ウオッカの反応は…?


――さて、2008年天皇賞・秋はゴール前でディープスカイとカンパニーを間に挟んでダイワスカーレットとの大接戦でした。ダイワスカーレットとは同い年で3歳クラシックの頃からしのぎを削ってきた間柄。長い写真判定に持ち込まれましたが、現場ではどんな雰囲気だったんですか?

中田助手 ゲートに行っていたので、バスの中で見ていたのですが、TVでは完全にダイワスカーレットが前に出ているアングルだったんです。検量前でも1着の枠場にダイワスカーレットが入ったので、ウオッカは2着の枠場に入れて、鞍を外して帰ろうとしました。

 ところが、地下道に入る手前で「待ってください」と止められたんです。そこから10分くらい待ちましたかね。誰かが叫んで、ウオッカが勝ったと知りました。その瞬間、ウオッカに抱きつきました。“持っている”というか、なんだかウオッカらしいですよね。こうしてハナ差で勝ったり7馬身ちぎって勝ったり、華がありましたね。

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▲わずか2cmの差でダイワスカーレットを競り落とした天皇賞(秋) (撮影:下野雄規)


――その1年4カ月後、遠征先のドバイで前哨戦を終えた後、自身2度目の鼻出血を発症し、本番ドバイワールドカップを前に引退が発表されました。

中田助手 元々、ドバイWCが終われば引退する予定でした。その前の2度のドバイ遠征は僕も行かせていただいたのですが、この時は前哨戦(マクトゥーム・チャレンジ・ラウンド3)からで滞在が長くなるため、前哨戦は攻め専(攻め馬専門の調教助手)に行ってもらって、僕はWC直前に渡航予定でした。

 引退を聞いた時は、繁殖牝馬になる仕事があったので、結果はどうであれ無事に引退してくれるのが一番なのかなと思っていました。ただ、アイルランドにそのまま行くことになって、もう会えないな…と。そしたら、角居先生が「行ってこい」と航空券を渡してくださって、3泊5日くらいの日程でアイルランドまで会いに行かせてくださったんです。

 最初の種付け前で、向こうにいるカメラマンさんや児玉敬調教師に助けてもらいながら、普段はなかなか入ることのできない牧場に特別に入れていただきました。そしたら、ウオッカが遠く離れた場所から走って近寄ってきてくれたんです。嬉しかったし、すごく可愛かったですね。

――角居先生の男前な計らいがあったんですね。その後、ウオッカの子供たちはみな、角居厩舎に入っています。実際に携わられた子はいますか?

中田助手 初仔のボラーレとケースバイケース、タニノフランケルです。初仔は小さく出るって言いますが、ボラーレは一番大きく出ましたね。軒並みみんな大きかったです。ケースバイケースやタニノアーバンシーは目がお母さんにそっくりです。タニノアーバンシーは毛色も一番似ていて、横顔が似ていますね。最後の子供もウオッカに似てくれていたら嬉しいですね。

――中田助手にとってウオッカはどんな存在でしたか?

中田助手 先生に近い相棒でした。この業界でやりたいことをウオッカ1頭でやらせていただきました。ダービーはもちろん、ドバイにも行って、年度代表馬にまでなって。こんな馬、なかなかやれないですし、教えてもらうことが多かったです。

 曳き馬では自信がつきました。走る馬の曳き運動って感覚的にちょっと違うんです。一瞬の動きがすごく速くて、それに対応できるようになれば、他の馬だと少し余裕を持って対応することができます。ウオッカの曳き運動から教えられたことは、今にも繋がっていますね。

――最後に、“先生”だったウオッカにどんな言葉をかけたいですか?

中田助手 「ありがとう」それしかないです。ウオッカのおかげでみんなに知っていただいて、東京に行った時にはJRAの職員さんから「ウオッカを担当していましたよね?」と声を掛けられたこともありました。もう、本当に感謝しかありません。

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▲中田助手が着ているジャンパーはウオッカの引退記念に中田助手が作られたもの。今でも通勤時に来ているそう (C)netkeiba.com


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▲全国5競馬場にウオッカの献花台が設置され、多くのファンが別れを惜しんだ (C)netkeiba.com

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