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ニオイに鈍感なオジサン、敏感な種牡馬

  • 2019年10月31日(木) 12時00分
 先週、北海道から戻ってくる日、いつものように新千歳空港温泉に行った。その脱衣所で、ひどく痛い思いをした。顔ぐらいの高さからスマホを右足の人差し指の上に落としてしまったのだ。昔のコントよろしく、足を押さえようと体をくの字にしたら頭をロッカーにぶつけ、思わず「オッ」と声が出た。期せずして注目の的である。もう服を脱いでいたので、そのまま温泉に入り、帰京した。翌朝、足の指が紫色に変色して腫れていた。

 夕刻、足を引きずって「優駿エッセイ賞」の選考委員会に行った。脱衣所の話をすると、吉永みち子さんに「なんで温泉に入ったのよ」と呆れられた。「それ、ヒビぐらいは入っているでしょう」と大崎善生さん。

 あれから1週間。足の指の腫れは引いたが、今度は右手の小指から肘にかけてピリピリ、チクチクと痛みはじめた。近くの整形外科に行くと、頸椎の椎間板に狭くなっているところがあり、ヘルニアの疑いがあるという。

 50代半ばになると、あちこちに不具合が出てくる。自覚している症状だけでもこれだけあるのだから、無自覚なところでも、動きの鈍さや加齢臭などで、きっと周囲に迷惑をかけているのだろう。

 確かに、私ぐらいの年齢になると、加齢臭のひとつと言える口臭のない人はほとんどいない。多くの人は、自分の臭いに無自覚になるのと同様、周囲の臭いも気にしなくなる。

 しかし、それはどうやら人間の男に特有のことで、サラブレッドの牡は違うようだ。

 先日、社台スタリオンセンターを事務局の徳武英介さんに案内してもらったとき、種付所に、種牡馬のネームタグが貼られた「首当て」がいくつも吊るされていた。種付けするとき牝馬の首にかぶせるもので、種牡馬によって、牝馬の首を噛む位置が異なるので、長さはまちまちだ。ほかの種牡馬の匂いがついていると嫌がる種牡馬がいるので、こうして馬ごとに専用のものがあるのだという。

 同じことを気にする人間のオヤジが、どれだけいるだろうか。

 また、だいぶ前に、種牡馬を別の馬の放牧地にスタッフが誤って入れてしまったところ、自分のものではない匂いがしたため、馬が暴れたこともあったという。

 さらに、風通しをよくするために植え込みを刈ったり、木を伐ったところ、道を挟んだ向かいのノーザンファームにいる牝馬の匂いや気配が感じられるようになり、そこを通る種牡馬が入れ込むようになった、ということもあったという。

 ここまで敏感なのも考えものだ。例えば、ビジネスホテルの部屋の残り香で、前夜泊まったのが若い女性なのか、オヤジなのかがわかるほど嗅覚が鋭すぎると、いろいろなことが気になって、眠れなくなる。そう考えると、人間の男の感覚が鈍くなっていくのも、理に適っているとまでは言わずとも、上手くできた生理のひとつと言えるのかもしれない。

 おそらく、サラブレッドは、牝の匂いを嗅ぎ取る能力が、自身のDNAを後世につないでいくにあたって必要なので、その力が保たれるのだろう。

 ひるがえって、人間のオヤジは、そうした能力が年々衰えるのにしたがって、機を逸することになる。機会があったとしても相手にされなくなっていく。きっと、そうなるように神様が設計したのだろう。

 書きはじめたときは、優駿エッセイ賞の話に持って行こうと思っていたのだが、逸れた先の話のほうが長くなってしまった。優駿エッセイ賞は、原稿用紙に書くか、プリントアウトしなくてはならないのだが、それでも今年は、例年よりかなり応募が多かったという。

 私のもとに送られてくるのは、最終候補に残った16作だけで、毎年同じ数なのだが、分母が大きくなったぶんの底上げを感じられる力作が多く、読んでいて楽しかった。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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