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痛みの正体、名馬の記憶

  • 2019年11月07日(木) 12時00分
 先週この稿に書いた、右手から肘にかけての痛みの原因は、ヘルニアではなかった。痛む範囲が右腕全体から肩甲骨へとひろがり、全身の倦怠感と頭痛、眠気もあり、塗る消炎剤がほとんど効かない。おかしいなと思ったとき、右腕の内側と肩甲骨に発疹があることに気づき、大きな病院に行ったら帯状疱疹だと言われた。専用の抗ウイルス薬を処方され、飲みはじめてから1週間になる。が、ズキズキと肉をえぐりながら刺すような痛みは、相変わらずつづいている。夜中に痛みで目が覚めることもたびたびで、脂汗をかきながら耐えている。

 話には聞いていたが、これほど痛くてしんどいものとは思わなかった。

 昔水ぼうそうにかかり、治ったあと体内に潜んでいたウイルスが、加齢やストレス、過労などで免疫力が低下したとき、再び活動を始め、帯状疱疹として発症するのだという。神経を伝わって皮膚に到達し発疹となるので、出る場所が決まっている。体の片側にしか出ないのも特徴で、50代から70代に多く見られる病気だという。

 2006年の秋、ディープインパクトが凱旋門賞で3位入線後失格と裁定されたころ、管理者だった池江泰郎元調教師も、腹部に帯状疱疹を患ったという。池江氏は当時65歳。今の私より10歳上だった。

 私が池江氏からその話を聞いたのは、2カ月ほど前、スポーツ誌の秋競馬特集の取材の席だった。同じ痛い思いをするのなら、自分もこの痛みを味わってから取材していれば、より当時の池江氏の苦しさに共感できたと思う。

 発症から1週間ほどは安静にしていなければならないのだが、昨秋から白血病を患っていた2歳上の従姉妹が亡くなったので、札幌に行ってきた。亡くなった従姉妹の義弟も、帯状疱疹が治ったばかりだった。彼は腹部に発疹と痛みが出たようだ。

 探すと意外に「痛み仲間」が多く、高校時代の同級生は、右の足の裏から臀部にかけて発症したという。まともに歩けず、シャワーもつらかったというから、たぶん、私の症状よりつらかっただろう。

 私はというと、先週末から右の手のひらにも発疹ができ、それがちょうどマウスに当たって原稿に集中できない。

 なので、何度も浴槽に浸かって(温かい湯に入っている間は痛みを感じない)は、合間にテレビで野球の「プレミア12」を見るなどしている。初戦のベネズエラ戦の前、国歌が流れたとき、稲葉篤紀監督をはじめ、代表選手はみな君が代を口ずさんでいた。以前の侍ジャパンは、一部の選手しか君が代を口ずさんでいなかった。毎年、日本ダービー当日に東京競馬場で国歌斉唱に合わせて君が代を口ずさみ、今年も母国で競馬の祭典を見られることに感謝しているひとりの日本人として、ずっと違和感を抱いていた。

 少し前の新聞記事を見ると、ラグビーW杯の日本代表の姿に胸打たれた稲葉監督が、「日の丸を背負って戦うので、国旗を見て歌おう」と提言したという。素晴らしい。それでこそ全日本の監督だ。「グラウンド内では唾を吐かない」「ベンチでは出場しない選手もユニフォームを着て帽子をかぶる」といったことを徹底する姿勢にも好感が持てる。

 さて、1995年の菊花賞、有馬記念などGIを4勝したマヤノトップガンが、繋養先の新冠・優駿スタリオンステーションで死亡した。27歳だった。それまでの先行策から一転して後方待機策を取り、直線で突き抜けた1997年の天皇賞・春は見事だった。

 それ以上にインパクトが強かったのは、1996年の阪神大賞典だ。ラスト600メートル付近からゴールまで、マヤノトップガンはナリタブライアンとビッシリ馬体を併せて叩き合い、頭差の2着に惜敗した。内の田原成貴・トップガンと、外の武豊・ブライアン。2頭が並走して首の上げ下げとなった35秒ほどの熱狂と、ゴール後もしばらく体内に渦巻いていた興奮は、今も忘れられない。名手と名馬による競演は、競馬史に残る名勝負となった。

名馬マヤノトップガン、安らかに。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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