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「四位洋文騎手」の特別な引退セレモニー

  • 2020年03月05日(木) 12時00分
 先週の土曜日、四位洋文の騎手引退セレモニーが、阪神競馬場で行われた。日付で言うと、4年に一度の閏年だけの2月29日。さらに、新型コロナウイルスの影響で無観客という、特別なセレモニーとなった。

 いつかはこの日が来るのだし、本人が選んだ道なのだから、私がどうこう言ってもせんないことではあるのだが、やはり、もうあの華麗な騎乗フォームが見られなくなるのかと思うと、寂しかった。

 私が、騎手時代の四位に関して、簡単なプロフィール以上のことを知ったのは、スポーツ誌「Number」1994年5月26日号に掲載された武豊と藤田伸二の対談で、司会・構成をつとめたときのことだった。藤田は四位に関してこう言った。

「競馬学校の実技でも、アイツはうまかった。僕も真似しようかな、と思ってずっと注目してるんです。最近はさらに磨きがかかっている」

 本稿の読者にとっては言わずもがなかもしれないが、四位と藤田は競馬学校の騎手課程で同期だった。四位は、デビューした1991年は10勝、92年は24勝、93年は27勝と、それほど目立った成績を残していなかった。

 それに対して、藤田は、デビュー2年目の92年にタケノベルベットでエリザベス女王杯を勝ってGI初制覇を遂げるなど、早くから活躍していた。その彼が、これほど褒める四位洋文という騎手はどんな手綱さばきをするのか──と、競馬を見る楽しみがひとつ増えたように感じた。

 紙幅の都合で載せられなかったが、「とにかくカッコよく乗れる」「ホンマに上手いから見てやってください」と、藤田は四位を絶賛していた。

 武は、その時点では、四位と挨拶以上の言葉は交わしたことはなかったという。もちろん敵対していたわけではない。私の記憶違いでなければ、ふたりが初めて挨拶以上の言葉を交わしたのは、その少しあとに行われた、騎手会の釣り大会の船上だったはずだ。

 前出の武と藤田の対談が行われたのと同じ1994年、四位は、桜花賞トライアルの4歳牝馬特別を勝って重賞初制覇を遂げる。同年56勝、翌95年は64勝、96年はGI初制覇となった皐月賞(騎乗馬イシノサンデー)と、2勝目のエリザベス女王杯(騎乗馬ダンスパートナー)を含む71勝を挙げ、以降、リーディング上位の常連となっていく。腕に成績が追いついてきたのだ。人気先行型とは逆の、実力先行型の典型であった。

 98年にはシンコウフォレストで高松宮記念を勝ち、GI3勝目をマーク。

 2001年から03年にかけては、アグネスデジタルとのコンビで、岩手の南部杯、天皇賞・秋、香港カップ、フェブラリーステークス、安田記念を制し、同馬を芝・ダートの「二刀流王者」とした。

 そして、07年にウオッカで日本ダービーを制し、1943年のクリフジ以来、史上3頭目の牝馬のダービー馬を誕生させた。

 翌08年にはディープスカイで日本ダービーを連覇。1998年にスペシャルウィーク、99年にアドマイヤベガで達成した武以来、史上2人目の「競馬の祭典」連覇であった。牝牡で日本ダービーを制したのは史上初の快挙だった。

 実は、彼のダービー連覇は、2勝とも、私の個人的な事情に深く結びついている。

 ウオッカの64年前に牝馬としてダービーを制したクリフジの主戦騎手だった前田長吉の評伝で、私は2011年度のJRA賞馬事文化賞を受賞することができた。

 そして、彼のディープスカイがゴール寸前でかわして2着に負かしたスマイルジャックは、30年以上前、私が大学に籍のあったころから世話になっている調教師・小桧山悟の管理馬だった。

 ダービー、オークス、菊花賞の変則三冠を含む11戦全勝という輝かしい戦績をおさめたクリフジの主戦騎手・前田長吉に再び光を当てたのも、贔屓の「スマイル」をあと一歩のところで負かしたのも、騎手・四位洋文だったのだ。4コーナーでは後方3番手だったディープスカイのダービーは、前年も勝っていた彼だからこそできた「ダービー仕様」の見事な騎乗だった。

 年齢を重ねると、どういうわけか、人の節目に立ち会いたくなってしまう。

 松永幹夫が騎手を引退した06年2月26日、私は阪神競馬場には行かず、中山競馬場のターフビジョンで彼の引退式を見ていた。当時、私は41歳。松永は38歳。親しさで言えば、四位と同じくらいか、それ以上だったのだが、そのときは(阪神まで行く金がなかったのかもしれないが)、中山のターフビジョンで引退式を見守った。

 しかし、今回は、現地に行かずにはいられなかった。かつて、四位が兄貴分として慕い、1998年に鞭を置いた田原成貴の引退レースが自然と思い出された。田原が、兄弟子・田島良保の管理するメガラで臨んだ引退レースは2着だった。勝ったマックスキャンドゥの鞍上は、当時27歳の四位だった。

 四位のラストライドとなった2月29日の阪神最終レースの騎乗馬は、千田輝彦厩舎のヴィント。パドックで曳いていたのは、かつて田原厩舎で弥生賞を勝ったフサイチゼノンを担当していた植平敏次だった。と書いておきながら、私はリアルタイムではそれに気づかず、翌日、かつて田原厩舎にいた調教助手の樋口喬啓に教えてもらって知った。

 寂しいが、騎手というのは、いつまでもできる仕事ではないのだから、仕方がない。

 四位洋文。綺麗なフォームで、大胆でありながら、フェアで、カッコよく、華のあるジョッキーだった。

 引退セレモニーの壇上で、彼が「幸せな騎手人生だったと思います」と話したのを聞いて、彼の騎乗を見ることができてよかった、今日もここに来てよかった、と心底思った。

 彼はこれから、第二のホースマン人生である調教師として、また頂点を目指す。次はどんな夢を見せてくれるのか。調教師・四位洋文が送り出す馬を見るのが楽しみだ。(本文中敬称略)

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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