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ふたりの大先輩が天国へ

  • 2020年03月12日(木) 12時00分
「週刊競馬ブック」で報じられたように、競馬コラムニストのかなざわいっせいさんが、3月5日に亡くなった。64歳だった。

 私が初めてかなざわさんに会ったのは、1987年の秋か、翌88年の春だったと思う。いずれにしても、私は競馬を始めたばかりだった。かなざわさんが32歳で、私は23歳。ふたりとも若かった。

 かなざわさんが「東京中日スポーツ」のレース課で週末にアルバイトをしており、それを私が引き継ぐことになった。どうして私がかなざわさんの後任となったのか、説明すると長くなるのだが、せっかくなので、ここに記したいと思う。

 かなざわさんがそのバイトを辞めることになったので、当時、「東京中日スポーツ」にいた、朝日新聞の有吉正徳さんが、後任を探した。誰か適当な人はいませんか、と、大学の先輩で人脈が広く、畠山重則厩舎で調教助手をしていた「コビさん」こと小桧山悟調教師に訊いた。

 せっかくなら若いほうがいいだろうと、コビさんは、そのころフジテレビの報道番組のリサーチャーをしていた放送作家のウメさんに声をかけた。コビさんとウメさんがどうして知り合いなのかはちょっとややこしいのだが、コビさんが学生時代に北海道の生産牧場巡りをしていたとき、同じように生産地を回っていたイラストレーターの更級四郎さんと知り合い(出会った場所はムツゴロウさんの動物王国だったかもしれない)、更級さんの甥であるウメさんとも親しくなったのだった。更級さんは『馬ものがたり』など競馬関連の著書もある人で、実は、それもかなざわさんと私に結びついてくる。

 で、ウメさんが、同じ報道番組でリサーチャーになったばかりの私に声をかけ、私が「東京中日スポーツ」でバイトをすることになった。その引き継ぎのために品川で待ち合わせたのが、かなざわさんとの初対面だった。

 正確な日時は覚えていないのだが、待ち合わせ場所で、タバコか禁煙パイポのどちらかをくわえて立っていたかなざわさんの佇まいは、今でもよく覚えている。猫背の私よりも背中を丸め、ズボンの前ポケットに両手を入れて、ただ何となく、という感じで立っていた。

「高いもの頼んじゃダメだよ」

 一緒に入ったピザレストランで、席につくなりかなざわさんが言った。世はバブル真っ盛りだったが、私を含め、周りの多くの人はカネを持っていなかったので、特に驚かなかった。それよりも、奢ってくれるつもりだとわかって、嬉しかった。

 ひとつのピザをふたりで分けた。コーラも頼んだと思う。

 その話を、2008年の日本ダービー翌日に都内のホテルで行われた「週刊競馬ブック」の懇親会で、かなざわさんにした。

「おれが他人にメシを奢ったことなんてあったかなあ」と、最初は思い出せない様子だったが、話すうちに記憶が蘇ってきたようだった。

「あれ、いくらぐらいだった?」

「覚えてないですけど、7〜800円だったと思います」

「じゃあ、今の価値に換算したら2000万円ぐらいだな。ハイ、2000万円くれ」とかなざわさんは手を差し出した。

 そういうことをパッと言える人だから、「週刊競馬ブック」で1994年からほぼ四半世紀にわたり、あの人らしい、面白いエッセイを書きつづけることができたのだろう。

 ピザを奢ってもらって以降、ちょくちょくかなざわさんと会うようになった。コビさんと3人で常磐線に乗り茨城方面に向かった日のことも覚えているのだが、どんな用事だったかは思い出せない。

 いつだったか、かなざわさんが、ぶらりと私のアパートに遊びに来たことがあった。そのとき、前述の更級さんの『馬ものがたり』の初出となった、夕刊紙「内外タイムス」の連載コラムのコピーが家にあった。1992年12月刊の『馬ものがたり』が出る前だったことは確かで、大井競馬場に近い立会川に住んでいたときだったので、89年か90年だったと思う。

「これ、面白いな」

 コピーをめくりながらかなざわさんが言った。5年ほど連載がつづいたので、コピーは3センチぐらいの厚さがあった。

 私は出かけなければならない用事があり、帰るときは鍵を郵便受けに入れておくよう頼んで出かけた。その夜、帰宅すると、かなざわさんはまだ私の部屋にいて、更級さんの連載を読んでいた。コピーの束をダイニングの椅子の上に置き、床に正座して読みつづけていたのだ。

「この人、よくこれだけの牧場を回ることができたな。すごいなあ」と、かなざわさん。

 ろくに食料のない私の部屋で、ずっと正座して、これを読みつづけていたかなざわさんのほうがすごいと思った。

 一緒にテレビ朝日の深夜番組に出演したこともあったし、競馬場にも何度も行った。

「優駿」「別冊宝島」「ナンバー」など、さまざまな媒体に寄稿していた。特に、1990年11月に出た『競馬おいこみ読本』所収の「情けない馬列伝」などは、近年の競馬文芸の最高傑作と言っていい。太宰治、倉本聰、椎名誠、清少納言ら、さまざまな作家の文体模写で、成績の冴えない馬たちを描写していくものだ。読んで即大笑いし、少し経って、あの人の才能に対する嫉妬心がむくむく頭をもたげてきた。

 単なる競馬関連の書き手を超越した、特別な存在だった。一種の、というか、間違いなく、かなざわさんは天才だった。

 先週の金曜日、斎場に会いに行った。思ったほどやつれておらず、ただ眠っているだけのように見えた。飼っていたネコは、コビさんが面倒をみている。

 かなざわさん、いろいろ楽しかったです。安らかにお眠りください。

 かなざわさんに先立ち、先月、2月18日には、芥川賞作家の古井由吉さんが世を去った。82歳だった。

 優駿エッセイ賞の選考委員として、私が加わった2014年から4年間、ご一緒させていただいた。いつも、選考委員会には、小さな鞄だけを持って参加していた。最終候補作は16篇。400字詰め原稿用紙10枚ぶんがB4の紙にプリントされているので、かなりの大きさと重さになる。

 選考委員のなかで、古井先生だけが、それを持たずに来ていた。あらかじめ読み込んで、すべて頭のなかに入れていたのだ。

「今回は、お坊さんの作品でしょう」とか「レースの描写に迫力がありますね」といったように、手元にあるかのように話す姿には、毎回驚かされた。

 体力的に厳しいからと、ご自身からの申し出で、2017年が優駿エッセイ賞選考委員としての最後の年となった。確かに階段の上り下りなどはつらそうだったが、それでも、お酒はよく飲まれた。そして、飲んでも、あまり変わらなかった。

 私がかなざわさんに出会ったころ、ライター業を始めるきっかけをくれた、大学の同級生のライターの八幡雅彦君が、古井先生の大ファンだった。八幡君はまったく競馬をやらず、私の周りでは、コビさんか、かなざわさんか、八幡君かというぐらいの読書家だ。

 古井先生、お会いできて光栄でした。安らかにお眠りください。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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