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「馬は使い捨て?」長寿馬シャルロットのオーナーがみてきた引退馬の実情(1)

  • 2020年03月24日(火) 18時00分
第二のストーリー

軽種馬の長寿記録を持つシャルロット(提供:R.Oさん)


「馬にも生きる権利があるはず」


 昨年8月3日、日本における軽種馬の長寿記録を持つシャルロット(セン)が、40歳2か月20日で亡くなった。競走馬名はアローハマキヨ。競走馬を引退した後は乗馬として長年、多くの人々を背中に乗せてきた。その間、幾度かの命の危機を乗り越え、最後の女性オーナーのR.Oさんが2003年に引き取ってからおよそ16年、シャルロットはその命を輝かせて生を全うしたのだった。

 16年間という長きに渡って愛情を注ぎつづけてきたシャルロットを失ったR.Oさんは、まだ心の整理がついていないと話す。そのような状況の中、人のために働きながらも使い捨てにされる馬たちの現状を、より多くの方々に伝えたいということで、今回取材に応じて頂いた。シャルロットを含めてこれまで看取ってきた馬たち7頭のエピソードを中心に、R.Oさんの切なる思いをお届けしたい。

 シャルロットは、1979年5月14日に北海道静内町(現・新ひだか町)の岡田猛さんの牧場で生を受けた。父アローエクスプレス、母はフランス生まれのサローングII、母の父はトラフィックという血統だ。

 1979年生まれと言えば、当歳のセリで当時の史上最高価格の1億8500万円で落札された華麗なる一族出身のハギノカムイオー(宝塚記念など重賞6勝)、シャルロットと同じアローエクスプレスを父に持つ桜花賞馬リーゼングロス、地方出身で中央移籍後初戦でセントライト記念に勝ったホスピタリテイ、顔半分を占める太い流星が印象的でJRA10場すべてに参戦して女旅役者との異名を取ったヤマノシラギク、日本初の白毛馬として競走馬デビューをしたハクタイユーほか、個性派が揃っていた年でもあった。
 
 父アローエクスプレスといえば、オールドファンにはライバル・タニノムーティエとのAT対決が懐かしく蘇るのではないだろうか。

 アローエクスプレス自身は1969年9月の新馬戦から1970年の京成杯まで破竹の6連勝を飾り、朝日杯3歳Sでは当時の3歳馬のレコードを0秒8更新して東の3歳チャンピオンの座についた。卓越したスピードで他を圧倒した快速馬であった。だが皐月賞、ダービーでは西の3歳チャンピオン、タニノムーティエの前に屈し、AT対決は西に軍配が上がった。

 3歳秋以降のアローエクスプレスは、彼らしさを発揮できないレースが続き、脚部不安にも見舞われた。休養を挟んで臨んだ1971年9月のスプリンターズS4着を最後に引退。種牡馬として新冠町で供用が開始されると、初年度から桜花賞、オークスと牝馬2冠を制したテイタニヤを輩出。その後も活躍馬を多数送り出して、春のクラシック戦線で後塵を拝したタニノムーティエには、種牡馬成績では大きく差をつけたのだった。

 そのアローエクスプレスを父に持つシャルロットは、塩浜攻仁さんの所有馬となってアローハマキヨと名付けられた。所属は大井競馬場の久保杉利明厩舎で、1981年〜1985年までの間に61戦して2勝、2着5回、3着5回という記録が残っている。

 6歳で競走馬生活を終えたシャルロットには、乗馬としての第二の馬生が待っていた。

残酷な現実を見続けて


 シャルロットの最後のオーナーとなったR.Oさんが、体験乗馬をきっかけに関東圏にある乗馬クラブに入会したのは1989年のことだった。

「大学時代、キャンパス内に馬術部の馬場があって、馬が間近にいる環境だったんですね。ただ馬術というと敷居が高く感じましたので、自分が馬に乗るというのはまるで考えていなくて、素敵だなと思って遠くから馬を眺めていました」

 元々が動物好きだったのに加え、この時キャンパスで目にした馬術部の光景が、R.Oさんを乗馬クラブへと誘った伏線になっていたと想像できる。

 乗馬クラブで馬と接するうちに、その独特の可愛さにどんどん嵌っていった。一方で馬たちの残酷な現実を知ることになっていく。

 現在、競馬を引退した馬たちの支援が広がりつつあるが、競走生活を終えて乗馬になれればそれで良しではない。乗馬としても大切にされている馬もいるが、練習馬として不特定多数の会員やビジターを乗せる馬たちは、酷使されているケースもあると聞く。特に大人しくて乗りやすい練習馬は、休む間もなくレッスンへと駆り出される。R.Oさんはそんな馬たちの姿に胸が痛み、合間を見ては少しずつでも手入れをしたり、可能な範囲で世話をするようになった。

 酷使されれば故障も出てくる。酷使され過ぎて、反抗的になる馬もいる。それが理由でレッスンに出られなくなれば、そのような馬が経営を圧迫するため、やがてクラブから出されることとなる。すべてではないが、出された先は食肉関係の業者という場合も多い。また高齢となって乗馬としての働きが十分できなくなっても、同じ道を辿ることになる。練習馬としてクラブに貢献してきた高齢馬を、乗馬を引退した後に絶対に引き取る。残酷な現実を見続けるうちに、R.Oさんはそう決意した。

 最初に引き取ったのは、1974年5月27日生まれのファーストワンダーという馬だった。ファーストワンダー(同名の競走馬が存在していたが同馬とは別の馬)は、アングロアラブ種で競走馬だったかは不明だが、健康手帳(正式名称:馬の検査、注射、薬浴、投薬証明手帳)の履歴からは、どうやら開校したばかりのJRAの競馬学校(1982年開校)にも籍を置いていた記録が残っていた。その後は大学の馬術部を経て、1987年頃にR.Oさんが通っていた乗馬クラブの練習馬となった。R.Oさんが入会する約2年前のことだ。

第二のストーリー

R.Oさんが最初に引き取った馬、ファーストワンダー(提供:R.Oさん)


「脚腰が強くなくて、休んでは使い、使っては休むを繰り返していました。引退したら引き取りたいとクラブにも話をしてあったのですが、ある日突然、出されてしまいました」

 R.Oさんはクラブと掛け合い、北関東にある馬の仲介や斡旋をする家畜商(馬喰とも呼ばれる)も生業の1つになっている牧場に行ったことを突き止め、そこを訪ねて引き取りたい旨を伝えた。

「その牧場にそのまま預託をしてくれたら、売っても良いと言われました」

 どうしても引き取りたいという強い思いがあっただけに、牧場側には逆に脚元を見られたのかもしれないとR.Oさんは話していたが、相手も商売だし仕方ない部分もあるだろう。だが馬の世界は闇が多いとも感じる。自分の時もそうだったが、ひとたび家畜商など業者に渡ってしまうと、探し出すのにまず苦労する。見つかればまだ良い方で、時には別の馬が送られてきたり、相場より高い値段がつくと聞いたこともある。

 さらに競馬の世界でも乗馬の世界でも、引退した馬のその後を追われるのを極端に嫌う傾向が散見される。それは馬を処分するということに対する後ろめたさが、理由の1つにあると思われるが、それが馬の行方探しにおいて大きな壁になっていることは間違いない。

 競馬では人のために走り、乗馬になればなったで身を削って人を乗せる。そして役目が終わればそのほとんどが処分の道を辿る。R.Oさんは、その現実が信じられなかったし、耐えられなかった。馬たちにも生きる権利があるはずだ。この強い気持ちに突き動かされたR.Oさんは、馬の命を繋ぐために、牧場の言い分を呑んで、ファーストワンダーを買い取った。
                                    
(※2000年以前は馬齢は旧表記)

(つづく)

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北海道旭川市出身。少女マンガ「ロリィの青春」で乗馬に憧れ、テンポイント骨折のニュースを偶然目にして競馬の世界に引き込まれる。大学卒業後、流転の末に1998年優駿エッセイ賞で次席に入賞。これを機にライター業に転身。以来スポーツ紙、競馬雑誌、クラブ法人会報誌等で執筆。netkeiba.comでは、美浦トレセンニュース等を担当。念願叶って以前から関心があった引退馬の余生について、当コラムで連載中。

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