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父との別れ

  • 2021年01月07日(木) 12時00分
 結局、今年の年賀状を出すことはできなかった。

 父が昨年12月30日午後11時53分、すい臓がんのため世を去った。84歳だった。

 有馬記念が行われた12月27日の朝、父が入院していた札幌の病院から私の携帯に着信が残っていた。折り返すと、担当医からの電話だった。父の状態がさらに悪化し、コミュニケーションを取ることができるのは今日が最後だろうと言われた。そこで、まず午前中に、札幌在住の叔父夫婦(父の弟夫婦)が面会できることになった。本来はコロナのため(その病院も別のフロアから陽性者が出ていた)全面的に面会禁止なのだが、ひとり5分ずつという条件で、部屋(個室)に入ることができるようにしてくれた。

 私もその日の飛行機で札幌入りし、夕刻、父と面会できることになった。が、東京からということで、職業(たくさんの人に会う機会が多いかどうか確かめるため)や、近い過去に大人数が集まるイベントに参加したかどうかなどを病院のマニュアルに則して訊かれ、問題なしということで、叔父夫婦同様5分だけ、ただし患者に近づかずに距離を取って話すということで認められた。

 叔父夫婦が面会したときは、父は何を言っているか不明瞭だったが、声を出したり、手を差し出して握ろうとしたりしたという。が、私が行ったときには、自分から声を出す力は残っていなかった。それでも、「苦しくないか」「痛いところはないか」「夜は眠れているのか」「寒くないか」と私が問いかけると、その都度頷いて返事をした。

 病室の外にはタイマーが置かれ、5分経ったらアラームが鳴るようセットされていた。

「コロナのせいでなかなか来られないけど、また面会が認められたら来るよ」

 そう言ったときは返事をしなかった。「また」はない、とわかっていたのだろうか。

 ベッドテーブルの上には、習慣になっている日記が2行ほど、ほとんど読めない字で書かれていた。日付はその2日前の12月25日だった。

 私が病室に入ってから3分ほど経ったとき、不意に父が寝たまま左手を挙げ、2、3度横に振った。まだ家で生活していたころ、私が東京に戻るのを見送って「じゃあな」と手を振ったとき同じような感じだった。

 これが今生の別れという意味で、手を振ったのだと思う。

 笑顔ではなかったが、穏やかな表情でこちらを見つめていた。

 父が精一杯気張っていつもどおりに手を振ったのだから、私も、同じように手を振り返した。つい「また」と言ってしまいそうになったが、「ちゃんと栄養とってよ」と言い、時間前に部屋を出た。

 それからしばらく、父が手を振ったときの肘の角度や腕の細さなどが、いくら押さえ込んでも脳裏に蘇ってきて、苦しかった。

 翌日は病院から何も連絡がなかったのだが、2日後、12月29日の火曜日の朝、主治医から電話が来た。それまでは誤嚥のリスクがあっても、本人の希望を優先して口から飲み食いしていたのだが、月曜日の夕食のとき、もう食事はいらないと自分から言ったという。

 翌日から1月3日まで主治医は休むことになっていたので、私から1日1回病棟に電話して父の様子を聞かせてもらうことにした。

 30日の午前10時半過ぎに電話したときは、微熱はあるが血圧は安定し、看護師の呼びかけに応じているとのことだった。腹水が溜まっていたので医療用麻薬を投与するのに必要最低限の200ccを点滴するだけだったが、尿も110cc出ていたという。低いレベルで安定しているので、今日、明日ということはないという話だったのだが──。

 午後11時20分、病院から私の携帯に電話がかかってきた。父の意識レベルが急激に下がったので、すぐに来ることができますか、という看護師からの連絡だった。

 実家から車で向かい、病室には11時50分ごろに着いた。休みのはずだった主治医がそこにいて、残念ながら、心臓も呼吸も止まっていますと言われた。

 最期まで耳だけは聴こえていると言われているので、生きているうちに呼びかけたかったが、間に合わなかった。

 それでも、ただ眠っているように目を閉じていたので、「親父、親父」と何度か呼びかけてしまった。

 主治医が私たちの前で瞳孔や呼吸、頸動脈などを確認し、11時53分に臨終、ということになった。

 11時ごろに看護師が「呼吸とか苦しくないですか」と声をかけたら頷いていたという。

 昨秋、すい臓のがんが肝臓に転移してからだるさはあったようだが、痛いとか苦しいと言うことはまったくなかった。穏やかに、安らかに逝くことができたのが、せめてもの救いだった。

 元旦に通夜、1月2日に葬儀と繰り上げ法要で初七日と四十九日をやり、実家に近い寺に納骨を済ませた。こういうご時世なので家族葬にし、死亡広告も「葬儀終了」で掲載されるようにした。

 言ってもせんないタラレバだが、コロナがなければ、毎日病院に見舞いに行き、病室で一緒にテレビを見たり、デイルームにお茶を飲みに行ったりすることができ、もう少し長く生きてくれたと思う。急変のある病気なので、その「もう少し」は数日か数週間だったかもしれないが、1日でも長く生きてほしいと思うのが家族というものだ。

 2014年に腎臓がんと悪性リンパ腫、2018年に今回のすい臓がんのほかに胃がんが見つかり、合間に2度、肺炎で入院しても、その都度復活して元気になった。そんな父を不死身のように思っていたせいか、母親を送ったときとは違って、あまり現実感がない。

 ここ6年ほどは入退院を繰り返し、病院に連れて行って、見舞いに行き、しばらくしたら退院させ、また入院……という日々だったから、今もその延長線上にいるように錯覚しているのかもしれない。

 自分の話ばかりで、長くなってしまった。本稿の担当編集者は私に気遣い、今週は無理をしなくてもいいと言ってくれたのだが、何があっても書くのが私の仕事なので、いつもどおりにやらせてもらうことにした。

 ということで、みなさま、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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