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「私たちの自慢の息子」家族と送る第三の馬生 キクノエンブレムとのかけがえのない出会い(3)

  • 2021年04月27日(火) 18時00分
第二のストーリー

穏やかな馬生を送るキクノエンブレム(提供:Hさん)


“自慢の息子”いまでは家族の一員に


 Hさんが乗馬クラブに通い始めた頃は、馬を所有することは全く考えてはいなかった。だが初回で紹介したイギリス生まれの元競走馬に出会って、考えが変わった。その馬が内臓疾患のために痩せてしまい乗馬としても復帰できないかもしれない状況の中で、最後は自分が引き取ると決めたのだ。だがそれが叶う前に、馬は天国へと旅立った。

 その後、毎週のようにクラブで顔を合わせていた馬が引き取られ、頻繁に会えなくなることもあった。そのような経験を積み重ね、キクノエンブレムに出会ったHさんは「この馬とは別れられない」という気持ちが強くなる一方だった。

「でもキクノを引き取るのは、私で良いのかなという葛藤もありました」

 霧が立ち込める競技会で、キクノエンブレムに乗って成績が伸びなかった時には、こんな私で良いのかと落ち込んだ。だが深い霧の中でキクノエンブレムが驚きもせず競技を終えられたのは、Hさんとの信頼関係がしっかりできているからだと、同行していたインストラクターの一言が救いとなった。

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信頼関係が築けているからこそ、こんなふうに寄り添うことも…!(提供:Hさん)


 こうして絆を深めるうちに、キクノエンブレムを引き取って看取ることが、Hさんの人生の目標になっていた。そのことについてはHさんの夫もよく理解し、賛成してくれていた。

 一方キクノエンブレムは、Hさん曰く「ポヤッとした可愛らしい性格」も相まって、クラブの所有馬としてたくさんの会員に愛され、レッスンや競技会で成績を残した。だが馬体に不安を発症し、休養を余儀なくされた。治癒を目指してケアされていたが、なかなかスッキリと良くならず、クラブ側は引退を決断するに至った。引き取りたい旨、希望を伝えていたこともあり、Hさんの引き取りが実現した。こうしてキクノエンブレムは、夫妻の愛する息子として迎え入れられ、家族の一員となった。 

「キクノから幸せをたくさんもらっています」


 現在キクノエンブレムは、景色の良い空気がきれいな牧場で余生を穏やかに過ごしている。

「キクノという名前もあって、最初は女の子と間違われることもあります。顔も穏やかな感じで男の子っぽくないですしね。同じ牧場に馬を預けているオーナーさんに、本当に人懐っこいですねと言われますし、他の馬たちにも好かれていて、本当に自慢の息子です(笑)」
 
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人懐っこく、馬にも好かれる、優しい笑顔のキクノエンブレム(提供:Hさん)


 牧場は、Hさんの自宅から車で通える範囲ではあるが、遠方にあたる。そこを選んだのは静かな環境はもちろん、愛馬に“してあげたい”と考えていることを割と自由にさせてもらえるという理由からだった。馬の歯を専門に診る歯医者にも、2年連続して診察を受け、必要な処置を施してもらった。放牧地では友達もできて、仲間たちと過ごす喜びも日々味わっている。夫妻で牧場に足を運んでは、乗り運動も続けている。さらには散歩がてら道路から近い場所も歩いているという。

「まさかそういうところを歩けるとは想像もしていませんでした。絶対に怖がると思ったのですが、車が来たよってキクノに注意を促せばよほどのことがない限り大丈夫ですし、放牧地のすぐそばで重機が大きな石をガラガラと落としても平気でした。昨年夏には、大雷があったんですよね。それまで晴れていたのに突然の雷鳴で、曳いている私が悲鳴をあげるほどだったのですが、キクノは全くバタバタせずにいてくれました。それを見ていた主人がキクノはすごい馬だねと感心していましたし、私も同じ気持ちでした。たとえ驚いたとしても、キクノは絶対に人に怪我を追わせるようなことはしないですし、人が邪魔な場所に立っていても、足を踏んだりせずに自分から避けてくれるんです」

 かつて自分の影に驚いていたキクノエンブレムが、今ではすっかり落ち着いた馬になった。

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今ではすっかり落ち着いた馬に(提供:Hさん)


「キクノがいる牧場には、競馬の仕事をしていたスタッフもいるんです。その方が、『競馬に携わっていた人は、競走馬時代のそのままの名前でいてくれることがすごく嬉しい』と言ってくださいました。もしかすると競走馬時代のキクノのファンがいてくれるのではないかと、そう思って今回の取材も受けさせてもらうことにしました」 

 ウマ娘ブームで、過去の有名馬に注目が集まっている。だがキクノエンブレムのような競走馬たちが下支えしているからこそ、競馬は成り立っているのだし、重賞に名を連ねる馬たちも光輝くことができるのだと思う。競走馬として、乗馬として、今までたくさんの人を楽しませてくれたキクノエンブレム。

「これからはキクノが喜ぶような楽しいことをして、健康で長生きしてほしいです。その姿を一番近くで見ていられる私たちは、キクノからたくさんの幸せをもらっています」

 Hさんがキクノエンブレムと出会って今年で11年目。これからは夫妻の愛馬として、伸びやかな時間を刻んでいくことだろう。

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この先もずっと家族みんなで伸びやかな時間を…(提供:Hさん)


(了)

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北海道旭川市出身。少女マンガ「ロリィの青春」で乗馬に憧れ、テンポイント骨折のニュースを偶然目にして競馬の世界に引き込まれる。大学卒業後、流転の末に1998年優駿エッセイ賞で次席に入賞。これを機にライター業に転身。以来スポーツ紙、競馬雑誌、クラブ法人会報誌等で執筆。netkeiba.comでは、美浦トレセンニュース等を担当。念願叶って以前から関心があった引退馬の余生について、当コラムで連載中。

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