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ホワイトマズルでの初凱旋門賞挑戦、そこで突きつけられた現実と2度目の挑戦を呼び込んだ不思議な縁/第3回

  • 2022年08月07日(日) 18時01分
“ジョッキーズヒストリー"

▲武豊騎手とオリビエ・ペリエ騎手(提供:平松さとし)


レジェンド・武豊騎手の歴史をご本人と親交の深いライターの平松さとし氏が、全12回にわたって振り返る「ジョッキーズヒストリー」第3回はホワイトマズルと挑んだ1994年、サガシティと挑んだ2001年凱旋門賞です。

武豊騎手にとって初騎乗となった1994年の凱旋門賞、遠い“憧れのレース”という存在だった凱旋門賞が一気に現実の話になったその年、武豊騎手は何を考えていたのか。その後のフランス修行、そして不思議な縁が招いた2度目の凱旋門賞挑戦までを振り返ります。

(構成=平松さとし)

夢の舞台から現実へ 武豊騎手を凱旋門賞へ導いた不思議な縁


 前回、前々回の当コラムでは武豊騎手が制した初めての日本ダービーとなったスペシャルウィークや、惜敗で3連覇を逃したエアシャカールらのエピソードを記した。

 それらの活躍は丁度、20世紀から21世紀を跨ぐくらいの時期。この頃、すでに日本の天才騎手は世界でも認められる存在になっており、事実、凱旋門賞(G1)での騎乗も経験済みだった。

 父はご存知武邦彦元騎手元調教師(故人)。そのため武豊騎手が「幼い頃からダービーを勝ちたいと考えていた」という話は第1回で記した通り。しかし、凱旋門賞に対する感覚は少し違ったという。

 「凱旋門賞の存在も中学生くらいの頃には知っていました。でも、当時はまだ海外のレースは遠い存在でしたからね。自分が乗る姿も想像出来なかったし、勝ちたいというよりは“憧れのレース”という感じ。眺める存在のレースという気持ちでした」

 日本調教馬が初めて凱旋門賞に出走したのは武豊騎手が生まれた1969年の話。その年、スピードシンボリが挑戦すると、その3年後にはメジロムサシが出走。いずれも惨敗に終わった。

 「当然、記憶にはありません。ただ、シリウスシンボリが出走した時、僕は競馬学校の生徒だったのでよく覚えています」

 ただ、その時でさえ、凱旋門賞に対する各ホースマンの温度差を感じたと語る。

 「今みたいに誰もが注目している感じではありませんでした。見る人は見るけど、多くのホースマンが『あぁ、シリウスシンボリが行っているのね?』という感じの捉え方だったと記憶しています」

 そんな遠い存在だった凱旋門賞。ところが、1994年、一気に現実味を帯びる出来事が起きる。

 「この年の春、オグリローマンで桜花賞(GI)を優勝しました。このレースでハナ差の2着に敗れたのがツィンクルブライドでした。それが影響したのか(同馬のオーナーである社台レースホースの代表)吉田照哉さんから直接、連絡をいただきヨーロッパでの所有馬に対する騎乗依頼を受けました」

“ジョッキーズヒストリー"

▲1994年桜花賞のオグリローマン(外)とツィンクルブライド(内)(c)netkeiba.com


 それがキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドS(G1)に出走するホワイトマズルだった。結果は2着に敗れるのだが、その後、ドーヴィル大賞典(G2)を挟んで出走した凱旋門賞で、武豊騎手は再びその鞍上を任される事になったのだ。

 「最初に依頼をいただいた時は『え?自分で良いのですか?』という感じでした。それまで遠い憧れの存在でしかなかった凱旋門賞が一気に単なる夢の中の話ではないんだな、と思えたというか……。この頃からですね、凱旋門賞制覇に対し、具体的に色々と考えるようになったのは……」

 94年の話だから武豊騎手はまだ25歳。先述したスペシャルウィークによるダービーの初制覇が98年の話だから、それよりも4年も前の話だったのだ。

 「若かったし、今、考えると経験も浅かったので、考えていたような競馬を出来ずに終わってしまいました。レース前のパドックでは大勢のカメラマンに囲まれて、そうこうするうちにアッという間に騎乗合図がかかってしまいました。調教師と最終的な打ち合わせも出来ないまま乗る事になってしまったんです

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1965年、東京都出身の競馬ジャーナリスト、ターフライター。国内だけでなく、海外での取材も精力的に行なっており、コラムの寄稿や多数の著書を出版するなど幅広く活動している。

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