スマートフォン版へ

おれはやるぜ。何かを

  • 2022年10月27日(木) 12時00分
 先週の日曜日、今村聖奈騎手がJRA通算44勝目と45勝目を挙げ、藤田菜七子騎手が2019年にマークしたJRA女性騎手の年間最多勝記録(43勝)を更新した。

「東スポ競馬Web」の「記者コラム」に、次のような彼女のコメントが載っていた。

「ちょうど1年前は東京で模擬レースに乗っていたころで、1年後にどんな騎手になれるのか想像できませんでした(以下略)」

 武豊騎手が好例だが、飛び抜けた大仕事をやる人は、「以前は想像すらできなかった自分」になれる人であることが多い。普通、「先行きが不透明」という表現は悪い意味で使われるのだが、「想像もできなかった自分」になる力のある人は、不透明な未来を楽しみに生きることができる。

 ひるがえって、私はどうか。今の私は、1年前には想像すらできなかった自分になっているだろうか。

 と考えてみたのはいいが、そもそも、1年前に自分が何をしていたのかを思い出すのに苦労している。

 スマホのヤフーカレンダーによると、この稿を書きはじめた日からちょうど1年前は、京浜島粗大ごみ受付センターに粗大ごみを持ち込んでいる。で、その週末、エフフォーリアが勝った天皇賞・秋を取材した。当コラムの昨年10月のバックナンバーには「競馬やってる大喜利」なんかもある。懐かしい。

 メールを見直すと、12月に上梓した本のゲラのやり取りや、月刊誌の連載の最終回の入稿、もうひとつのウェブ連載でイレギュラーの名馬物語の執筆など、今よりずっと忙しかったことがわかる。

 あのころには想像できなかった自分になることができたかというと、否。きっちり想像の範囲内である。同じようなことしかやっていないのだからそれは当然で、ほかの誰のせいでもなく、自分のせいだ。

 昔読んだ4コママンガを思い出した。ある男が「おれはやるぜ」と不敵に笑った。友人は驚きながらも興味ありげに「何をやるんだ」と聞いた。男は「何かを」と答えた。友人は絶句した──というオチである。

 今の私は、とりあえず、その男のセリフを繰り返しておく。

 おれはやるぜ。何かを。

 さて、去年の天皇賞・秋では、エフフォーリアが、自身の父の父であるシンボリクリスエス以来19年ぶりとなる3歳馬による勝利をおさめた。天皇賞・秋が2000mになったのは1984年からで、3歳馬が出走できるようになったのは87年からだった。

 なお、「帝室御賞典」として行われていた37年の第1回天皇賞・秋(東京芝2600m)と、38年の第2回天皇賞・春(阪神芝2700m)にも3歳馬は出走可能だった。第1回は出走馬8頭中5頭が3歳馬で、1着ハツピーマイト、2着フエアモア、3着ヒサトモという3歳馬の1-2-3フィニッシュだった。が、38年5月15日に行われた第2回天皇賞・春に、3歳の出走馬はいなかった。

 当時2歳の競馬は行われておらず、競馬シーズンの開幕は、例外的に京都や阪神で1月に春季開催が行われたこともあったが、普通は早くても3月下旬で、東京、横浜、中山などでは4月か5月にスタートするのが常だった。となると、3歳馬はデビューから1、2カ月で天皇賞・春に出ることになる。そのキャリアで一線級の古馬とやり合う馬が現れていれば、それはそれで面白かったと思うのだが、やはりいなかった(天皇賞の出走条件は、第3回から「4歳(旧5歳)以上」となった)。

 87年以降の天皇賞・秋に話を戻すが、シンボリクリスエスの前に、96年、バブルガムフェローが3歳馬として2000mの天皇賞・秋初勝利を挙げている。この条件になってから36頭の3歳馬が挑戦し、3頭が勝利をおさめているわけだ。最も多くの3歳馬が出走したのは2010年の5頭。そのときはペルーサが2着になっている。それに次ぐのは04年と12年の3頭で、それぞれダンスインザムードとフェノーメノが2着となった。

 今年出走を予定しているジオグリフ、イクイノックス、ダノンベルーガは、第1回以来85年ぶりの3歳馬による1-2-3フィニッシュをやってのけても不思議ではない力を持っている。シャフリヤールやパンサラッサ、ジャックドールなど、迎え撃つ古馬勢も強いだけに、楽しみだ。

 閑話休題。少し時間ができたおかげで、読みたかった本を何冊か読むことができた。

 その一冊が、『颶風の王』で馬事文化賞を受賞した河崎秋子さん(「崎」はたつさき、以下同)の『介護者D』(朝日新聞出版)である。三十路で独身、東京で契約社員として働いていた琴美は、父の介護のため札幌の実家に戻る。母は5年前に交通事故で他界しており、妹は結婚してアメリカへ。介護に関するあれこれはすべて琴美が背負うことになった。そんな琴美の精神的な支えになっていたのは、「推し」のアイドル「ゆな」だった。琴美は、父の理不尽な要求や、かつての同級生との生き方の違いなどに戸惑い、悩みながらも、「ゆな」のおかげでエネルギーを得て頑張ることができた──。

 とても面白く、一気に読んだ。介護は一昨年まで私にとって身近な問題で、実際に介護に関与していない家族や知人とのやり取りでカチンと来たことを思い出したり、実家のある「手稲」が会話に出てきて「おっ」と思ったりと、いろいろな気持ちになることができた。河崎さんの作品を読むときはいつもそうなのだが、日本語の上手さに感嘆し、ときに嫉妬を覚えながらページをめくるうちに、「本をひらいているときだけは別の世界で呼吸ができる」という読書ならではの楽しみに漬かってしまう。本書に関しては私だけの楽しみ方をしたのかもしれないが、ともかく、いい時間を過ごすことができた。

 と思っていたら、本稿を書いている最中に、河崎さんの新刊『清浄島』(双葉社)をご恵贈いただいた。“美しい孤島にキツネが運んだ寄生虫「エキノコックス」。それは「呪い」と恐れられる病を生んだ”という帯文に惹かれ、本文の最初の2行を読んだだけで、またすごい世界に連れて行かれそうな予感がし、嵌まりそうになった。が、ほかにも〆切があるので、泣く泣く本をとじた。まあ、こうして溜めておく時間があることも読書のよさではあるのだが。

 さあ、人のことを褒めてばかりでなく、自分も頑張ろう。

 おれはやるぜ。何かを──じゃなく、あれも、これも。

このコラムをお気に入り登録する

このコラムをお気に入り登録する

お気に入り登録済み

作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。

関連サイト:島田明宏Web事務所

バックナンバー

新着コラム

アクセスランキング

注目数ランキング