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ニュースター、フェルナンド・ハラ登場

  • 2006年06月13日(火) 23時50分
 10日にニューヨーク州ベルモントパークで行われた第138回ベルモントSは、アメリカ競馬サークルの次代を担う可能性のある若者が、その全貌を全米のファンに明らかにする場となった。

 ケンタッキーダービー馬もプリークネスSの勝ち馬もいなかった今年のベルモントS。1番人気に推されたボブアンドジョンのオッズが5.7倍もつくという、大混戦となったこのレースを制したのは、5番人気のジャジル(父シーキングザゴールド)だった。前々走のウッドメモリアルS・2着でトップ戦線に浮上後、ケンタッキーダービーがブラザーデレクとデッドヒートの4着。その後、プリークネスSはスキップしてベルモントSに臨んでいたこの馬。ケンタッキーダービーで敗れた後、プリークネスSは回避してベルモントSを目指した馬の優勝は、04年のバードストーン、03年のエンパイアメーカーに次いで、ここ4年間で3頭めと、ひとつのトレンドになりつつあり、3冠レースの日程を見直すべきではないかとの議論を更に助長する要因ともなりそうだ。

 優勝馬主は、マクトゥーム兄弟の次男ハムダン殿下。3週前、ピムリコで行われたプリークネスSを三男のシェイク・モハメドが所有するバーナーディーニが制しており、今年の北米3冠は3分の2をマクトゥーム家が支配したことになった。ベルモントS当日のベルモントパークでは、アンダーカードとして行われた3歳馬による7FのG2ウッディースティーヴンスSも、ダーレイの所有馬ソングスターが優勝。ベルモントパークにおける翌日(11日、日曜日)のメインレース・G2ヴァグランシーHも、ダーレイの所有馬ドバイエスカペイドが優勝と、英国における絶不調ぶりとは対照的に、アメリカにおけるドバイのレーシング・オペレーションは極めて順調なシーズンを送っている。

 さて、冒頭で記した「アメリカ競馬サークルの次代を担う可能性のある若者」とは、ジャジルを勝利に導いた鞍上のフェルナンド・ハラ騎手だ。弱冠18歳のハラは、パナマ生まれ。父が祖国パナマで調教師をやり、祖父はチリで調教師をやっているという、競馬一家の3代目である。祖国パナマで、14歳の時に騎手デビュー。アメリカには2年前、フェルナンド・ハラが16歳の時に移籍していた。

 G1制覇は、言うまでもなくこれが初めて。重賞制覇は、今年3月にジャジルと同じキアラン・マクラフリン厩舎のライクナウでアケダクトのG3ゴーサムSを制したのに次いで、2度目。更に言うなら、重賞に騎乗したことすら、数えあげれば両手で足りてしまうというほとんど無名の若者が、3冠最終戦という大舞台でとんでもない大仕事をしてくれたのである。

 しかもスタートの瞬間、ハラの右足がゲートと接触して、あぶみが外れるというアクシデントがありながら、実に冷静に対処して事なきを得るなど、18歳らしからぬ落ち着いたプレーを見せたハラ。マクラフリン師は彼の素質を非常に高く評価しており、G3ゴーサムSの後にも、「彼は凄いキッドだよ。この世界の未来のスターだよ」とコメント。ジャジルに騎乗してウッドメモリアルSで2着となった後、ベテラン騎手へ乗り替わる話もあったが、ジャラを起用し続けてベルモントS制覇の日を迎えた。

 フェルナンド・ハラ(Fernando Jara)。Jaraという綴りは、英語読みにするとジャラだが、西海岸のトップ調教師Julio Cananiが「フリオ・カナーニ」、トップ騎手のJorge Chavezが「ホルヘ・チャヴェス」、芝の有名なレースSan Juan Capistranoが「サン・フアン・カピストラーノ」であるように、スペイン語圏ではJaraを「ハラ」と読む。ハラ騎手の今後に、おおいに注目したい。

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1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。

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