目黒駅前から権之助坂の下り坂を駆け下りて、目黒川を渡って大鳥神社を横目に目黒通りをバス停3つひた走る。その名も「元競馬場前」というバス停である。いかにも、競馬場が昔あったんだろうなと思わせてくれるバス停名だ。
そのバス停を降りて、しばらく目黒通りを歩く。すると人通りの多い歩道にひっそりと可愛らしくも小さな馬の像が見えてきた。トウルヌソルの像だ。
1932年に行われた第1回東京優駿の勝ち馬・ワカタカやクリフジなど実に6頭ものダービー馬を輩出した大種牡馬だ。
この像とバス停名以外に目黒に競馬場があった痕跡はないのだろうか。そこで目黒通りから路地に入ってみた。一帯はほぼ100%純粋な住宅地だ。
その中に不自然なカーブをしている路地があった。車1台も通れるかどうかという細い路地だ。
目黒競馬場の馬の走路だ。より深く推測してみると馬が走る走路がこんなに狭い訳はないので、むしろ競馬場の外周に沿って通っていた道路がそのまま今に残っている、といったほうが正確なのではないかと思う。
先には大きなマンションや学校などが建ち並ぶ。大きな施設を建設するにあたって、細い面影路地はすべて取り壊されてしまったのだろう。
そのマンションなどある一角に、元競馬南泉公園という小さな公園があって、さらに目黒区立不動小学校の校門の脇には「目黒競馬場跡」と書かれた説明の碑が設けられていた。
1907年に完成し、都心に近く実に便利な競馬場だっただろう。が、開場1年後の1908年には馬券発売が禁止されてしまい、競馬暗黒時代に入る。その時期を目黒競馬場では池上にあった池上競馬場などと合併する形で生き延びて、1923年に現金払い戻しの馬券発売が許可されると再びお客を増やし、1932年のダービーで頂点に達した。当時、満員の客がスタンドを埋めてるのがよくわかる。
そうした中で、山手線のすぐ外側にあるような好立地の目黒競馬場周辺にもあっという間に宅地化の波が押し寄せ、広大な競馬場は邪魔者になっていたのだ。結果、ダービーが目黒競馬場で行われたのはわずか2年、1934年に東京競馬場に移転。その後、またたく間に競馬場跡地は開発されて姿を変えてしまった。けれど競馬場が町から消えて約90年が経った今でも、通りの名やバス停、そして目黒通りに佇むトウルヌソルと、あちこちにその歴史が刻まれている。
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