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■第15回「単機能」

  • 2015年05月25日(月) 18時01分
【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革を断行し、一度はスタッフがやる気になったが、管理馬が勝てず、またダレ気味に。そんなとき訪ねてきた競馬史研究家に、伊次郎は、曾祖父の「ヘン徳」こと徳田伊三郎の血を意識させられる。



 競馬史研究家の鹿島田が帰ると、徳田厩舎の大仲は、ひとりがいなくなっただけとは思えないほど静かになった。

 伊次郎は、自分のもとで働く従業員の顔をあらためて見回した。

 ベテラン厩務員のトクさんは、せっかく染めた頭髪の根元から白いものが目立ち、もとのみすぼらしさが戻りつつある。

 ぐうたら厩務員の宇野は、社会の窓の上半分をあけ、鼻くそをほじっている。

 その妻の美香は、仕事のときだけかけるメガネを脂でテカらせている。

 女性厩務員のゆり子は口を半びらきにし、ヤニで黄色くなった歯を見せている。

 主戦騎手の藤村は、直立不動のままテーブルに視線を落とし、ときどき右腕をひくつかせている。斜めに置かれたペンをまっすぐに直したくて仕方がないのだろう。

 ――まったく、どいつもこいつも……。

 パッと見ただけで、仕事ができない集団だとわかる。

 癖がある、と言うより、癖に手足が生えて動いているような変わり者ばかりだ。

 これまで伊次郎は、彼らの仕事に対する姿勢を「正常化」させることばかり考えていた。が、鹿島田と話して、ふと気づいた。

 ――このなかで、誰よりも変わっているのは、おれ自身なんだ。

 伊次郎は、明治の終わりから、大正、昭和にかけて活躍し、奇行が目立ったため「ヘン徳」とあだ名された徳田伊三郎の曾孫にあたる。曾祖父は、平均寿命を過ぎても騎手として戦い、陰口を叩かれようが、白い目で見られようが「我が道」を突き進んだ。

 ――止まった時計、か。

 鹿島田は、徳田伊三郎は止まったアナログ時計だった、と言った。

「止まった時計と動いている時計とでは、どっちが正確だと思う?」

 子供のころ、友人にそう問いかけられたことがあった。

「そりゃあ、動いている時計だろう」と答えた。が、不正解だと言われた。

 時針、分針、秒針のすべてが止まった時計は、1日に1回、必ず本当の時刻とぴったり一致する。しかし、動いている時計は、永遠に進んだままだったり、遅れたままだったりすることもある。だから、止まった時計のほうが正確だ――と言われたときは頓智話のようなものだと思い、それ以上深くは考えなかった。

 しかし、今、自分の周りの時間を遡りながら振り返ってみると、競馬サークルでは、「止まった時計」の成功例が実に多いことに驚かされる。

 騎手では「逃げの××」、「追い込みの○○」、調教師では「ハードトレーニングの△△」といったように、ひとつの得意技をきわめ、結果を出しつづける者がこの世界には少なからずいる。

 確かに、逃げたり、追い込んだり、馬ごみのなかで我慢したり、マクったりと、その都度戦法を変えた場合、毎回、ベストの戦法からズレてしまうこともあり得る。それに対して、どんな馬でも、どんなレースでも逃げつづけていれば、いつかは必ず、「逃げるのがベスト」という馬やレースに行き当たる。

 これは、裏返すと、競馬というのは、それほどベストの戦術を選択するのが難しい、ということだろう。

 埒の向こう側、つまり、観客席側にも同じことが言える。穴を買うと堅くおさまり、本命を買うと荒れて、終わってみればスッカラカン……というケースがよくあることは、馬券を買うファンなら誰でも実感をもって知っているはずだ。

 手を替え品を替え、工夫すればするほどぬかるみに足をとられる……今の徳田厩舎は、まさにその状態にある。

 ――このあたりで、おれも止まった時計になってみるか。

 考えてみれば、いろいろな馬の仕上げ方をしても限界点は知れているし、バリエーション豊かな走りをさせようとしても、応じられる能力のある馬はいない。それができるくらいなら、とっくにいくつも勝っているだろう。

 厩舎改革と意気込んだのはいいが、体裁をとりつくろうことに、いささか気をとられすぎたようだ。

「なあ、センさんよ」

 伊次郎が呼びかけると、センさんは全身をビクッとさせた。

「な、なんだべさ、急に」
「うちの馬に怖がりなやつが多いのは、どうしてだと思う?」

 センさんは胸の前で腕を組み、「うーん」と唸ってから答えた。

「それはやっぱり、人間がちょしてる時間が短かったからだべな」
「ちょす」とは、さわるという意味の東北・北海道弁である。

「そういう気性面の欠点は、すぐに治ると思うか」
「どうだべ。ここんとこ、急に人間といる時間が長くなって、まだどの馬も戸惑ってるような気がするなあ」

 センさんがそう言うと、横に立つゆり子が口を尖らせた。

「でも、ムーちゃんは、あたしとたくさんいられて喜んでるよ」

 彼女が鳴き声から「ムーちゃん」と呼んでいる芦毛のシェリーラブは、もともとおとなしい性格の馬だ。伊次郎の管理馬で一番勝利に近いところにいるのだが、惜敗がつづいている。

 伊次郎が頷いた。

「確かに、シェリーラブはここ何走で操作性はよくなっている。藤村、それは乗っていて感じるだろう」
「はい、ずいぶん乗りやすくなりました」と藤村は即答した。

「で、力のほうはどうだ。前より強くなったと感じるか」
「いや、それは……」と藤村は言葉を濁した。

 馬の能力は、あとづけで加えることはできない。人間にできるのは、馬がもともと持っている能力を出せる状態にしてやり、その出し方を教えてやることだけだ。

「要は、能力の出し方の問題なんだ。わかるか、藤村」
「出し方……」と藤村は首をひねった。

「これからしばらく、うちの馬は単機能作戦で行く」
「はあ」と藤村は、わかったような、わかっていないような顔をしている。

「藤村。お前は、客や、ほかの関係者にボロカスに言われるかもしれないが、この作戦を押しとおせるか?」
「……」
「いや、押しとおせ。その結果、ほかの調教師が誰ひとりとしてお前を乗せなくなったとしても、おれだけは免許がある限り、お前を起用しつづける」
「い、いや、その……」

「どうだ、やってくれるか」
「え、ええ、いや、あの……」と藤村は目をしばたたかせた。

「そうか、やってくれるんだな」

 伊次郎に見つめられた藤村は目を潤ませ、かすかに唇を震わせている。

 シェリーラブが「ムー」と鳴く声が、大仲まで届いてきた。

(つづく)



【登場人物】

■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。近代競馬の黎明期に活躍した「ヘン徳」こと徳田伊三郎・元騎手の末裔。

■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。

■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。

■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。

■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。

■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハートで病的に几帳面。

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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