【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかり、その1番手として牝馬のシェリーラブが出走。軽快に逃げ切り、厩舎初勝利を挙げた。次は牡馬のトクマルで、単機能の「逃げ作戦」をつづける。
ゲートがあいた次の瞬間、主戦の藤村を背にしたトクマルが、横並びの他馬より体半分前に出た。
「ダッシュよく出たのは3番のトクマル!」
実況アナウンスが響く。レース中、トクマルの名が呼ばれたのはいつ以来だろう。
前走までは、後ろに控えて……というか、ついて行けずに位置取りが悪くなり、そのまま後方に沈む競馬を繰り返していた。スタートからゴールまでずっと後ろのままの、いわゆる「馬場掃除」というやつである。
しかし、きょうのトクマルは違う……はずだった。
1完歩目はジャンプするように出て、2完歩目も勢いに乗ってスムーズだった。が、3、4完歩目が遅い。
内と外から、同型の逃げ馬が並びかけてくる。
どのレースでも、徳田厩舎の「とおせんぼジジイ」として立ちはだかるベテラン騎手・矢島の本命馬が内、若手のホープ・小林が乗る牝馬が外だ。小林が乗っているのは、藤村が騎乗依頼を断った馬である。
3頭が横並びになった。
――さあ、どうする、藤村。
ここから強引に抜け出すか。それとも、いったん下げて、ペースが落ちたところでハナを奪い返すか。
藤村が選んだのは、どちらでもなかった。
無理に行くでも下げるでもなく、内に矢島の馬、外に小林の馬を従え、3頭で雁行して馬群を引っ張る手に出たのである。
3頭は鼻面を揃えたまま、1コーナーに進入して行く。
矢島と小林は、名手同士の阿吽の呼吸で、同じレースプランを描いていたと思われる。真ん中のトクマルを両側から同時にかわしたあと、コーナーワークで内の矢島が前に出て、小林が砂を被らない外目の2番手となり、レースをつくるつもりだったのだろう。
――藤村のやつ、それをわかっていたようだな。
要は、藤村も、矢島と小林の域に達している、ということだ。そして、矢島と小林がつくりかけたレースを、あえて壊す乗り方をしている。
スピードで劣り、逃げた経験のないトクマルにとって、これは楽な展開ではないが、矢島と小林が主導権を握れずにいることもまた確かだった。
――やるじゃねえか、藤村。
自分がレースをつくれないのなら、ほかの誰にもつくらせない――そうするにはこれしかない、という騎乗である。
特に、外々に張り出されている小林の馬のダメージが大きい。自分が断った馬に先着されたくない――という藤村の意地が感じられる。
矢島の馬と小林の馬がもし勝てなかったら、それぞれの調教師や馬主は敗因をどう分析するか。
――藤村にやられた。
そう思うに違いない。「敵に回すと嫌なやつだ」という印象を与えることはすなわち、味方にしたい、つまり、自分たちの馬に乗ってもらいたい――と思わせる、ということだ。
藤村は、騎手として、中身も、評価も、確実に変わりつつある。
これまで伊次郎は、藤村を「チーム伊次郎の一員」といった目で見ており、実際そのように扱ってきた。しかし、そろそろ考え直さなければならないようだ。
父もずっと応援してきた騎手なので、多方面から評価されるのは嬉しいのだが、半面、手の届かないところへ行ってしまう寂しさも感じた。
――いや、今はそんなことを考えている場合じゃないぞ。
伊次郎は、見開いた目をコースに向けたまま、両手で顔をピシャッと叩いた。
向正面に入っても、先頭は、内から矢島の馬、トクマル、小林の馬、と3頭並んだ状態でレースを引っ張っている。
次位集団とは5、6馬身ほども離れ、そこから後ろは縦長になっている。
横並びでハナを切る3頭が、ハイペースで飛ばしたまま3コーナーを回って行く。
「引くに引けない展開になった」
レース後、敗戦の弁としてそう語るのは、矢島か、小林か、藤村か、それとも3人ともか。
ずっと外を回らされている小林の馬は、手応えが怪しくなりつつある。
4コーナーを回りながら、小林の馬が置かれ出した。
4番手以下の馬たちが、一気に差を詰めてきて、直線に入った。
藤村が乗るトクマルは、まだ矢島の馬に食らいついている。
もしトクマルが勝てば、徳田厩舎にとって、父子を通じて初めての連勝となる。はたして奇跡は起きるのか――。
(つづく)
【登場人物】
■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。近代競馬の黎明期に活躍した「ヘン徳」こと徳田伊三郎・元騎手の末裔。
■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。鳴き声から「ムーちゃん」と呼んでいるシェリーラブを担当。
■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。
■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。
■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。
■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハートで病的に几帳面。
■矢島(やじま)
人相の悪いベテラン騎手。リーディング上位の豪腕。
■小林(こばやし)
若手のなかでは飛び抜けた成績を残している騎手。