【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかる。まずは牝馬のシェリーラブが厩舎初勝利を挙げ、次に出走したトクマルは惜しい2着。急にレースぶりがよくなった徳田厩舎に売り込みをかけてきた一流騎手の矢島が、センさんの担当馬クノイチで勝った。しかし、矢島は気になる発言をした。
クノイチで勝ったレースの直後、矢島が言った「厄介な問題」とは何か。
上がりの歩様を見ながら、息の戻り、汗のかき方、首の使い方、そして目の輝きなどを確かめたが、わからなかった。
――簡単にはわからないから「厄介な問題」ということなのか?
翌朝、センさんが曳くクノイチの動きを再度念入りにチェックし、獣医に内臓のほか、目や耳にも異常がないか調べてもらったが、健康そのものだという。
「若先生、なあしてそったら心配すんだ」と、センさんが訝しげに訊いた。
「矢島さんが、ちょっと気になることがあると言うんだ」
「なんだべか」
「それが、『あとで話す』と言ったきり、関西の交流重賞に乗りに行ったからわからないんだよ」
「んだば、矢島が帰ってくるのを待って、本人に訊くしかねえな」
センさんの言うとおりだ。
伊次郎は、宿題を出された子供のように、矢島に「正解」を提示しなくてはならないと思い込んでいた。が、考えてみれば、あれほどキャリアのある一流騎手が、実戦で騎乗したからこそ感じた難しい問題に新人調教師が気づかなかったとしても、恥じる必要はない。
その夜、行きつけの「カフェバー・ほころび」のカウンターで、いつものカクテル「しがらみ」を飲んでいると、背後のドアがあいた。あまり表情を動かさないマスターが、珍しく驚いたような顔をした。
「いらっしゃいませ。お久しぶりです」
「おう。やっぱりここか」と、矢島が入ってきて、伊次郎の隣に腰掛けた。
「この店、来たことがあるんですね」と伊次郎。
「ああ、先代のころはしょっちゅうな。こいつは腕がいいが、愛想がよすぎてダメだ」とマスターを見て顎をしゃくった。
マスターは苦笑しながらシルバーのシェーカーを振り、柑橘系の香りがするカクテルを矢島の手元に滑らせた。
「おれの好きなカクテル『ゆきずり』だ。この手際のよさが如才なさすぎて面白くないんだよなあ」と文句を言いながらも、美味そうに飲んでいる。
矢島が大きなゲップをしたのを潮に、伊次郎は切り出した。
「教えてください。クノイチの問題を」
「ああ、そのつもりでここに来た」と矢島はグラスを空にし、おかわりの意味で人差し指を立て、つづけた。「あの馬は、おれが思っていた以上に、筋肉も関節もやわらかい。そうだなあ、似たタイプは――」と、矢島がかつて乗った馬の名を挙げた。すべて重賞の勝ち馬だった。
「それほどの馬たちに似ていると言われるのは嬉しいですが……」
「もう気づいただろうが、今挙げたのは、どれもマイル以上の重賞を勝った馬ばかりだ。クノイチの体のやわらかさは、それらの馬と同じように、中距離、いや、長距離ランナーとしての優れた適性を感じさせる。と、言いたいところだが」
「……」
「心配機能が追いついていない。スタミナという点ではマイルでも厳しい。勝った1500メートルでギリギリ、1400メートルならまあ安心、ベストはそれ未満だろうな」
「なるほど」
「だが、短距離馬としてやっていくには、体幹を含め、すべてがやわらかすぎる。歴代の名スプリンターを思い出してみろ。ゲートから弾丸のように突き進むイメージの馬が多いだろう? 逆に、ゲートを出てから、体がやわらかいがゆえに伸びた背中が縮むまで3完歩も4完歩もかかるような馬では、一流のスプリンターにはなれない」
「どうしたらいいんでしょう……、いや、それを考えるのが調教師の仕事ですね」
「ひとりで背負いこむな。競馬でしか確かめたり矯正できない問題が絡む場合は、騎手との共同作業だ」
「はい……」
「おれの意見を言うと、だ。まず、せっかく持って生まれたやわらかさを生かすことを最優先事項にすべきだ。今までたいして走らなかったのは、あちこちが緩すぎて、力の入れ方を馬がわかっていなかったからだろう」と矢島は、膝をひらき、腰で馬を前へと押し出すような仕草をした。速く走るための力の入れ方を、自分が実戦で教えてやったのだ、と、強調する意味もあったのか。
「ということは、ある程度、距離のあるところでやっていくべきだ、と」
「ああ。スタミナはあとづけできるからな。あるいは、あまり成功例はないが、やわらかい短距離馬にしていくか、だ」
「なるほど。次は1400メートルを使う予定なので、やわらかい短距離馬としての可能性を見ることができますね」
「そうだな。面白いと言っちゃ、馬に申し訳ないが、楽しい作業だろう」
「はい」
「本当にそう思っているのか? いつもしかめっ面ばかりして」と、矢島が口元だけで笑った。
「地顔です、と何度も言いましたが、実は……」
「なんだ」
「ただ上手く笑えないだけなんです」
そう言ってから、失敗だったかな、と小さく後悔した。これまで誰にも自分が上手く笑えないことを話したことはなかった。なぜ今、矢島に告白するかのようにポロッと口から出たのか、自分でもわからない。
「上手く笑えない?」と矢島が片方の眉を上げた。
「はい」
「おれなんて、笑いが止まらないこともあるけどな」
「そうですか」
「お前とおれを足して2で割れば、ちょうどよくなるんじゃないか。でも、人相の悪さはそのままか。ガハハハハ!」
「……」
「なんで笑わない。面白くないか」
「はい……、すみません」
しばらく沈黙がつづいた。
マスターがカウンターの外に出て、ドアに「CLOSED」の札をかけた。
ドアの隙間から鈴虫の泣き声が入り込んできた。南関東も秋競馬のシーズンに入ろうとしていた。
(つづく)
【登場人物】
■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。近代競馬の黎明期に活躍した「ヘン徳」こと徳田伊三郎・元騎手の末裔。
■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。鳴き声から「ムーちゃん」と呼んでいるシェリーラブを担当。
■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。トクマルを担当。
■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。
■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。クノイチを担当。
■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハートで病的に几帳面。
■矢島力也(やじま りきや)
人相の悪いベテラン騎手。リーディング上位の豪腕。