宝塚記念が行われる日曜日の出馬表を眺めていたら、阪神第7レースの3歳以上500万下の平場(芝2200m)に「ヒシマサル」の名を見つけた。鞍上が武豊騎手なので、余計に嬉しくなった。彼を背にしたヒシマサルの走りをライブで見るのは、実に四半世紀ぶりになる。
どういうことかというと――。
月刊誌の連載コラムにも書いたのだが、日曜日に走るヒシマサル(牡3歳、父ルーラーシップ、栗東・角田晃一厩舎)は「3代目ヒシマサル」なのである。
初代ヒシマサル(父ライジングフレーム、美浦・矢野幸夫厩舎)は1955年に生まれ、59年の安田記念などを勝ち、種牡馬となった。64年生まれの私はこの馬の現役時代をもちろん知らない。
懐かしいな、と思うのは、89年にアメリカで生まれ、日本で競走馬としてデビューした2代目ヒシマサル(父セクレタリアト、栗東・佐山優厩舎)が好きだったからだ。応援していたし、取材もした。
2代目ヒシマサルは旧4歳だった92年の春、500万下の寒梅賞、きさらぎ賞、毎日杯、京都4歳特別を4連勝。中団や後方から前をぶっこ抜く豪快な走りで強さを誇示していたが、外国産馬なので、当時はクラシックに出走できなかった。この年、牡馬クラシックの主役だったのは、対照的な脚質で皐月賞とダービーを逃げ切ったミホノブルボンだった。
同年秋、ヒシマサルは武騎手を背に、古馬中・長距離戦線で戦った。武騎手のお手馬だったメジロマックイーンが骨折して休養中だったため、このコンビで京都大賞典(2着)、ドンカスターステークス(2着)、ジャパンカップ(5着)、有馬記念(9着)に臨んだのだ。
92年のジャパンカップは、日本最初の国際GIレースに認定された記念すべき一戦で、制したのはトウカイテイオーだった。いつものように後方に待機していたヒシマサルは、武騎手が早めに促すと4コーナーで前をひとマクリにする豪脚を見せたが、直線で止まってしまった。
武騎手によると、彼がその年の夏、アメリカGI初騎乗を果たしたさいの相棒、ワールドクラススプラッシュに似たタイプで、「いかにもアメリカの馬という感じで、乗っている人間のことを怖い存在だとは思っていなかった」という。
どこにいてもマイペースだった。レースでは進んで行かないのに、返し馬では掛かり気味の走りでゲートに向かう。「お、やる気になったのかな」と思って見ていると急に立ち止まり、周囲をしばらく見回している。ゲートがあくと、「直線だけちゃんと走ればいいんだろう」とでも言いたげな走りをし、それでも勝ってしまうのだから、強い馬だった。
92年の有馬記念の前、スポーツ誌の取材で、栗東の佐山厩舎を訪ねた。そして、表紙に使用するカットのため、前庭で、ヒシマサルと、その曳き手綱を持つ武騎手の撮影をすることになった。
馬房から曳かれてきたヒシマサルは、私たちの前に来ると、不意に後ろ脚で立ち上がった。いななくことも、耳を絞らせることも、目をむくこともなく、ただヌーッと立ち上がった。やがて、静かに前脚を着地させ、カメラに向かってポーズをとった。
あれは威嚇だったのか。いや、そんな表情ではなかったので、挨拶だったのか。あるいは、私たちが「んーっ」と両手を上げて伸びをするようなものだったのか。
初代同様種牡馬となった2代目ヒシマサルは、2001年限りで種付けをやめた。その後、同じ名を馬名登録できない期間(用途変更の翌年1月1日から14年)が過ぎたので、今の3代目が襲名した。なお、初代から3代までヒシマサルの血はつながっていないが、オーナーは、阿部雅信氏、阿部雅一郎氏、阿部雅英氏と父子3代つながっている。
3代目を管理するのが、騎手時代、2代目のデビュー戦と3戦目に乗った角田晃一調教師というのも、つながりが感じられて嬉しい。
白地に青いラインの入ったおなじみの勝負服をまとった武騎手が、ヒシマサルの背に跨る――そのシーンを見られると思うと、阪神競馬場を訪ねる楽しみがさらにふくらむ。
がんばれ馬券を手に、応援したい。