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週刊サラブレッドレーシングポスト

  • 2002年06月12日(水) 00時00分
 流浪の馬と流転の調教師に、艱難辛苦の末に栄光が訪れたのが、8日に行われたベルモントSだった。

 勝ったサラヴァは、ケンタッキー産馬である。G1・スピンスターS勝馬ワイルダーネスソングの3/4弟というなかなかの血統なのだが、なぜかメジャーな市場を避けて、10月にメリーランドで行われたミッドランティック・イースタンセールという2流のマーケットに上場され、ここではさすがに目立つ存在だったのか、セール4番目の高値となる19万ドルで購買された。

 これがピンフック目的の購買で、サラヴァはそのほぼ5カ月後、フロリダのファシグティプトン・コールダーセールに上場され、2ハロン22秒2というまずまずの時計を出して、25万ドルで購買された。

 ここでサラヴァを買ったのが英国人調教師のブライアン・ミーハンで、サラヴァは直ちに英国に連れて行かれ、5カ月後の2歳8月にサンダウンでデビューした。しかし結果は7頭立て4着。続く2戦目も6頭立ての4着で、3戦目が14頭立ての13着だった段階で、これは見込みがないと思った馬主グループはこの馬を売り払うべく、10月末から11月初旬にかけてニューマーケットで行われる現役馬セールにサラヴァをエントリーしたのだった。

 ところが、グループのうち誰が言い出したのかは知らないが、売るのではなくアメリカへ移籍させて使ったらということになり、現役馬セールを欠場。ケンタッキーのバーク・ケッシンジャー厩舎に移籍し、11月にチャーチルダウンズでダートのメイドンを使われていきなり初勝利。続くアロウワンスも2着と、英国時代とは見違えるようなレース振りを見せたのである。

 しかしその後4カ月ほど、サラヴァはファンの前に姿を表すことがなかった。原因は、裂蹄。その時が処置が不満だったのかどうかはわからないが、休養中にサラヴァは同じケンタッキーのケン・マクピーク厩舎に転厩になり、転厩後3戦目で得たマクピーク厩舎における初めての勝利が、前走の特別サーバートンSだったのだ。

 さて、そのケン・マクピーク。今年の春まだ浅い頃、彼の名はケンタッキーダービーの有力馬を2頭管理する調教師としてもてはやされていた。1頭は、前年のBCジュヴェナイル2着馬リペント。年が明けてリズンスターS、ルイジアナダービーと重賞を連勝。この時点でダービー前売りの本命になったのだが、イリノイダービーで敗れた後故障を発生し、トリプルクラウンを断念せざるを得なくなってしまったのである。

 ところがマクピーク厩舎にはもう1頭、ハーランズホリデーという大物もいた。こちらは、フロリダダービー、ブルーグラスSとダービー直前にG1連勝。堂々1番人気で本番に臨んだのだが、期待を裏切り7着に敗退。捲土重来を期したプリークネスSでも4着に敗れた後、落胆し憤慨した馬主が、ハーランズホリデーをトッド・プレッチャー厩舎に転厩させてしまったのである。このニュースが報じられたのが、ベルモントSの4日前であった。

 あたかもローラーコースターのような日々を過ごした馬と人が、一気に頂点に登り詰めたのが、ベルモントSだった。

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1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。

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