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【特別企画】福永祐一騎手の『私の恩人』(1)―自分の人生を犠牲にして育ててくれた

  • 2014年02月06日(木) 12時00分
福永祐一騎手
「あの人がいたから今の自分がある」「あの人のあの言葉があったから、ここまでやってこられた」──誰の人生にも“宝物”のような出会いがある。浮き沈みが激しく、つねに“結果”という現実にさらされているジョッキーたちは、そんな“宝物”たちに支えられているといっても過言ではない。ここでは、そんな出会いや言葉でジョッキー人生がどう変わり、そして今の自分があるのかを、ジョッキー本人の言葉で綴っていく。第3回は福永祐一。“天才・福永洋一”の息子として、華々しいデビューを飾ってから18年。彼には“もうひとりの父親”ともいうべき恩人がいる。トップジョッキーとなった今、改めて自身の軌跡を通してその存在の大きさを語る。(取材・構成/不破由妃子)


 1979年3月4日、毎日杯でマリージョーイに騎乗していた福永洋一は、最後の直線で落馬。重度の脳挫傷を負い、天才の名をほしいままにしていた騎手人生に唐突にピリオドが打たれた。当時の福永祐一は2歳3カ月。父親の身に起きたことを理解できる年齢ではなく、突然激変した日々の生活に、ただ身を委ねるしかなかった。

 2歳のときに父親がケガをして、母は祖父と一緒に毎日のリハビリに専念していました。自分と妹の面倒は祖母が看てくれていたんですが、外食や遊園地に連れて行ってくれたのは、のちに師匠となる“修ちゃん”でした。当時、北橋先生のご自宅は厩舎だったのですが、よく泊まりに行ってましたね。

 小・中学生時代、福永が夢中になったのはサッカー。競馬にはまったく興味がなく、競馬で知っている単語といえば“オグリキャップ”。毎年お年玉を送ってくれる“柴田のおじさん(柴田政人)”が、父と同じ騎手であることも知らなかったという。

 サッカー選手になりたかったんですけどね。正直、それほど巧くなかったし、体も小さかった。かといって勉強ができるかといえば普通だった。そんな自分が大化けできるとしたら、騎手しかないんじゃないかと。草競馬は別としても、中学生で競馬に乗ったことのあるやつはいない。だから、今から目指しても周りと同じところからスタートできると思ったんですね。すごくかっこ良くいえば、自分のなかにある可能性に賭けたんです。

 しかし、中学3年のときに受けた騎手試験は、直前のケガが影響して不合格。1年間、高校に通い、二度目のチャレンジで試験を突破した。新人の所属先は、競馬学校の職員と調教師が話し合って決めると聞く。よって、福永のケースでは、早い段階で北橋厩舎に所属することが決まっていたのかと思いきや──。

 競馬学校時代、北橋先生とふたりでご飯を食べに行ったときに、どこの厩舎でお世話になるかという話になり、先生が「関東で乗れ」と。当時は、西と東に所属がわかれることすらよくわかっていなかったんですが、ちょうどデビューと同時に、政人さんが厩舎を開業することになって。じゃあ政人さんのところにお世話になろうかっていう話になったんです。でも、そんな矢先に、学校生活のなかでホームシックになりまして(笑)。“ああ、こんなんじゃ関東はダメだな。やっぱり関西がいい”と心底思ったんです。それで、母親に『関西でデビューしたいから、修ちゃんにお願いして』と連絡し、先生に頼み込んで受け入れていただいたんです。

 それまでずっと、先生のことは“修ちゃん”、奥さんのことは“マーちゃん”って呼んでいたんですが、これからは“先生”“奥さん”と呼ばなければいけない。まずはそこからでしたね。

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