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【特別企画】柴田大知騎手の『私の恩人』(2)―年間0勝、それでも“騎手”をあきらめきれなかった

  • 2014年07月30日(水) 17時59分

◆関係者皆が涙した大きな一勝

 閉塞した毎日を打破するべく、2005年12月10日の中山5Rで障害初騎乗(ミラクルコジーン9着)。意を決して飛び込んだ新しい世界だったが、そう簡単に勝たせてはもらえなかった。2006年からは障害戦の騎乗数は激増したが、初勝利までには2年以上の時間を費やした(障害初勝利は2008年1月12日・中山4R・ジンデンバリュー)。大知いわく「平地の騎乗につなげたくて障害も乗り始めた」というが、その願いも叶わず。2006年から3年間は平地騎乗数がさらに激減し、ついに平地は3年連続0勝に終わった。

 ついに勝ち星がゼロになってしまったときは、自分でもビックリでしたよ。周りからも「調教師の勉強を始めたらどう?」とか、「助手に転向したらどう?」とか、「今のままでは、この先どうなるかわかるだろ?」とか、いろいろ言われました。そんなことは自分でもわかっていたんです。でも、どうしても辞めたくなかった。僕がこの世界に入ったのは、調教助手になるためでも調教師になるためでもない。今、辞めたら絶対に後悔すると思いました。そんな状況になっても、ジョッキーという仕事をあきらめきれなかったんですね。

私の恩人2

▲大知「ジョッキーという仕事をあきらめきれなかった」


 子供もふたりいましたから、家計は大変だったと思います。それこそ、助手に転向すれば収入は安定しますから、考えなかったわけではありません。でも、嫁さんは何も言いませんでした。むしろ「自分が納得するまでやったほうがいいよ」と言ってくれて。トレセンにいる時間はすごくつらかったんですけど、家に帰ればいつも変わらず明るく迎えてくれたんです。調教手当をもらうために、毎日ギリギリの頭数までスケジュールを組んでいましたから、家に帰るころにはそれこそヘトヘトだったんですけど、明るく迎えてくれる家族のおかげで、日々リセットすることができたんだと思います。

 そんな嫁さんも2008年だったかな、「(家計的に)もう本当にきつい」と…。それまでずっと我慢して、必死にやりくりしてくれていたと思うんですけど、0勝が何年か続いて本当にきつかったんだと思うし、嫁さんも覚悟をして言ったんだと思います。その言葉を聞いて、自分も「ああ、もう無理かな」って。「そろそろ考えなくちゃいけないな」って思いましたね。

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