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老舗・本桐牧場で余生を送ったフジノマッケンオーとハギノカムイオー

  • 2014年10月07日(火) 18時00分
第二のストーリー

▲愛らしい母仔の姿も。創業95年の本桐牧場を訪ねて


不遇な時代を経て、心穏やかに過ごした晩年


 ダービーを勝ったわずか17日後に、破傷風が原因で急逝したトキノミノル。作家の吉屋信子氏が「ダービーを勝つために生まれてきた幻の馬だ」と読売新聞に追悼文を寄せたことから、「幻の馬」とも呼ばれるようになり、のちに「幻の馬」という題名で映画化もなされた。現在では、東京競馬場のパドック脇に銅像が立っている。

 そのトキノミノルを生産したのが、新ひだか町三石本桐にある有限会社本桐牧場だ。1919年、大正8年に創業の歴史あるこの牧場は、その後も天皇賞馬のヤマニンモアー、オークス馬のオーハヤブサ、天皇賞馬のメジロタイヨウ、日経賞に優勝したキリサンシーや目黒記念に優勝したキリパワーなど数々の名馬を送り出してきた。その中の1頭にフジノマッケンオーがいる。

 父ブレイヴェストローマン、母ドミナスローズの間に1991年3月11日に本桐牧場に生まれたフジノマッケンオーは、中央競馬時代には皐月賞3着、ダービー4着とクラシック戦線を賑わせて、その年の秋にはマイルCSで3着にもなっている。古馬になってからは、ダービー卿CT、セントウルS、さきたま杯に優勝し、芝・ダートを問わない活躍を見せた。中央競馬の競走馬登録を抹消された後は、岩手、荒尾と地方競馬でも走り、長い現役生活にピリオドを打ったのが2000年のことだった。

 その後、種牡馬になる予定だったが、牝馬に全く興味を示さずに、種牡馬失格の烙印を押されてしまう。その後も彼の馬生は波乱万丈が続き、余生を過ごした名馬ふるさとステーション、日高ケンタッキーファームと行く先々で施設が閉鎖の憂き目に遭った。だがマッケンオーをこよなく愛するある夫妻により彼は買い取られ、日高ケンタッキーファームが閉鎖後には生まれ故郷の本桐牧場に居を移すこととなった。長期に渡る放浪の末、本桐牧場に戻ってきたマッケンオー。生まれ故郷での日々は穏やかに過ぎて行った。

 本桐牧場代表の長井恵さんは「種馬にはなれませんでしたけど、そのかわり人間にはものすごく優しかったんですよ。ある時、従業員の子供がマッケンオーの馬房に入り込んで、お腹のすぐ下あたりまで行ってしまったのですが、全く平気で何もしないんです」と、優しい口調でマッケンオーの思い出を語った。

 フジノマッケンオーと言えば三白眼が特徴的で、怖そうな表情に見える。けれども「顔と心は裏腹で、すっごい優しい子」(長井代表)という彼は、波瀾万丈の馬生ではあったものの、その性格から行った先々で可愛がられたのではないかと想像できる。だが彼を心から愛する夫妻が馬主となってからは、マッケンオーの馬生の中で1番心休まる日々だったのではないかとも思う。

「馬主さんはご夫婦で必ず年に何回か会いに来てくださって、1週間くらい滞在しては放牧地で一緒に過ごして、放牧が終わったら洗い場で馬を手入れしたり、馬房の寝藁掃除などもご夫妻がずっとやってくださいました。馬もお2人のことをちゃんとわかっていましたね。毎日、バナナやリンゴ、人参…、ハギノカムイオーもいましたから、カムイオーの分と2頭分を持ってきて、ずっと放牧地で過ごしていました。ご主人が社員旅行などで海外に行くと、奥様は北海道に来てマッケンオーと過ごしたりもしていました。前半は辛い思いをしたでしょうけど、後半の馬生は幸せだったのではないかなと思います」(長井代表)

 馬主となったご夫妻やファン、そして本桐牧場の長井代表をはじめとするスタッフの愛情に包まれ、本桐牧場でのマッケンオーの幸せな余生は10年ほど続いた。その余生に突然終止符が打たれたのは、2013年3月8日のことだった。

「22歳のマッケンオーは元気で毛ヅヤも良かったんですよ。高齢のカムイオーの方が心配でしたから、お昼休みの前に放牧地のカムイオーの様子を見に行ったスタッフが、倒れているマッケンオーを見つけたんです。この時は私も、心臓が口から飛び出しそうになりましたし、予想だにしなかったので信じられませんでした。結腸が破裂したのが原因だったようです」(長井代表)

 訃報を聞いて、オーナー夫妻もすぐに北海道に駆け付けた。「お2人もショックだったと思いますね。5月にまた会いにいらっしゃる予定でしたから。すぐにお墓を用意してくださいました」(長井代表)

 本桐牧場の敷地に「FUJINO MAKKEN O」の馬名とマッケンオーの額から流れる特徴的な流星が刻まれた石碑が完成したのは、2013年6月2日のことだった。「ご夫妻は、マッケンオーが亡くなってからもこれまでと同じように牧場にいらして、お墓参りをして、私たちとお話をしていかれます。マッケンオーが繋いでくれたご縁だと思って、嬉しく思っています」(長井代表)

 不遇な時代が長かった分、心穏やかに過ごした晩年はマッケンオーはもちろん、彼に関わる人々にとってかけがえのない時間だったに違いない。

第二のストーリー

▲フジノマッケンオーの石碑、美しい流星が刻まれている


最期は誰よりも愛してくれた人の膝の上で…


 本桐牧場には前述した通り、ハギノカムイオーも余生を過ごしていた。同馬は1979年4月1日、その前年までリーディングサイヤーだったテスコボーイと、高松宮杯やスワンS勝ちのある名牝イットーの間に、浦河町の荻伏牧場で生を受けた。イットーをさかのぼるとイギリスから輸入された繁殖牝馬・マイリーに遡るが、この牝系からは、多くの名馬が輩出されたために『華麗なる一族』と呼ばれていた。テスコボーイと華麗なる一族の血を引く同馬は、当歳時のセリ市において、当時の市場最高価格1億8500万で落札されて話題となった。

 2歳上の姉のハギノトップレディが桜花賞に優勝していたこともあり、その値段とあいまってデビュー時から注目の的だったカムイオーは、その期待に応えてデビューからスプリングSまで無傷の3連勝を飾った。その後、皐月賞では1番人気に推されるも16着、続くダービートライアルのNHK杯でも12着と大敗してダービー挑戦を断念した。秋は神戸新聞杯、京都新聞杯と連勝して、再び菊花賞で1番人気に推されたものの、ハイペースでの逃げが影響してか15着とまたしても大敗し、クラシックは無冠に終わった。

 年が明けて5歳(旧馬齢表記)になったカムイオーは、菊花賞以来となったスワンSで優勝すると、宝塚記念では芝2200mを2分12秒1という日本レコードを樹立してGI制覇を成し遂げ、続く高松宮杯でも優勝。しかし秋を迎えてオープン7着、ジャパンC16着、有馬記念16着と華麗な逃げ脚は持続せずに大敗し、引退が決定されたのだった。強さとモロさが同居していたカムイオーだが、いかにも名門の出の彼らしいレースだったように思う。

 現役を退いた後は、三石町(現・新ひだか町)の中村畜産で種牡馬となるが、目立った産駒を出せずに年月が過ぎ去り、彼を取り巻く情勢も次第に厳しくなってきた。その状況を見かねた写真家の内藤律子さんからの紹介で、カムイオーは本桐牧場へと繋養先が変わった。内藤さんは、それこそカムイオーの当歳時から写真を撮り続け、彼の子供たちも追い続けて写真集を出していて、カムイオーへの愛情は並々ならぬものがあった。

「ウチに来て2年くらいは種馬でしたけど、テスコボーイの産駒は腰が弱いのが特徴で、立ち上がると崩れてしまったりするんです。それでは命にも関わってきますので、種付けは中止した方が良いのではないかということになり、2000年に種牡馬を引退して功労馬となりました」(長井代表)

 腰は弱いものの、本桐牧場に来たばかりの頃のカムイオーはまだ血気盛んだった。「ツアーで見学にいらした方が、メジロティターンと一緒に写真を撮ったりしていたんですよ。その頃、ウチにいたティターンやウィナーズサークルは大人しかったんですけど、カムイオーはきついところがあって、人が近づくと噛みつこうとするなど威嚇してくるんです。なので最初は、一緒に写真を撮るようなことはできなかったんですよね。内藤さんには慣れているので平気でしたけど、まだまだ元気一杯だったんですよね」(長井代表)

 そのカムイオーも、時間とともに大人しくなってきた。「生活が本当にゆったりしていて、トラブルもあまりなかったですしね。年齢を重ねるにつれて人が近寄っても大丈夫になってきて、ファンの皆さんも一緒に写真撮影ができるようになりました」(長井代表)

 30歳を過ぎても、ほとんど獣医のお世話になることもなく、至って健康に暮らしていたが「33歳になってからの1年で段々衰えていきました。でも年の割には元気という感じではあったんです。担当者は夏の暑い時には屋根の下に入れて扇風機をかけて涼しくしてあげて、冬になると滑らないようにと気にかけていました。34歳になってからは『今年の夏を超えられるかな』と担当者も言っていました」

 異変は、2013年4月10日に起こった。「実は前の日に美浦の武藤調教師がいらっしゃって、『ここにいるなんて想像もしていなかった』とカムイオーを見て行かれたんですよ、その時もまだ元気だったんです。それが翌日の朝にちょっと様子がおかしいということになりましてね。まだ4月で草がちょぼちょぼとしかなかったんですけど、内藤さんがその草を持ってきてカムイオーに差し出しました。それを食べた後に、カムイオーは内藤さんの膝の上で息を引き取りました」

 カムイオーを誰よりも愛した人の膝の上で、苦しまず静かにカムイオーは天に召されていった。34歳だった。「あのように看取れたというのは、とても幸せだったと思います。内藤さんも満足だったのではないでしょうか」(長井代表)

 カムイオーはまた、多くのファンの心を掴んで離さない馬でもあった。「カムイオーを知っているのは、かなり前から競馬をされている方なんですけど、この馬には励まされたからと、高齢でも頑張っているカムイオーに毎年会いに来られるおじさんたちがいらっしゃいましたよ」(長井代表)

 今年7月に亡くなったエリモシックの時もそうだったように、本桐牧場はたくさんのファンの見学を受け入れている牧場でもある。(エリモシックの記事はこちらから)

「亡くなった母が、せっかく遠くからいらしてくれるファンの方を大事にしたいと常々言っていたんです。アクセスもあまり良くないこの場所に、わざわざ馬たちに会いに来られるわけですから、満足して頂かなければと私も思うんですよね」と、長井代表はほほ笑んだ。この言葉を聞いて、ここにいる馬たちは心地良く過ごし、訪れるファンの方は癒しと元気をもらって帰るのではないかと感じたのだった。

第二のストーリー

▲マッケンオーの石碑の横に立つ、ハギノカムイオーの石碑


 帰り際、フジノマッケンオーとハギノカムイオーの石碑の前で、手を合わせた。3月、4月と申し合わせたかのように立て続けに天に召された、2頭の名馬の静かな晩年に思いを馳せながら。訪れた時には本降りだった雨が、牧場の門を出る頃にはすっかり止んでいた。

(取材・文:佐々木祥恵、写真:編集部)

※有限会社本桐牧場
フジノマッケンオー、ハギノカムイオー他、キリパワー、ドミナスローズのお墓参りが可能です。またかつて種牡馬として繋養されていたチャイナロックの銅像も見学可能です。

住所 日高郡新ひだか町三石本桐190
見学時間 夏8:00〜16:00 冬8:00〜15:00
直接訪問可能(団体のみ、3〜5日前に連絡してください)
詳細は、競走馬ふるさと案内所へ

競走馬ふるさと案内所日高案内所
電話 0146-43-2121 FAX 0146-43-2500
HP http://uma-furusato.com/

訪問の際には、必ず事務所に立ち寄って、許可を得てください。

本桐牧場HP
http://www.honkiri.co.jp/

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北海道旭川市出身。少女マンガ「ロリィの青春」で乗馬に憧れ、テンポイント骨折のニュースを偶然目にして競馬の世界に引き込まれる。大学卒業後、流転の末に1998年優駿エッセイ賞で次席に入賞。これを機にライター業に転身。以来スポーツ紙、競馬雑誌、クラブ法人会報誌等で執筆。netkeiba.comでは、美浦トレセンニュース等を担当。念願叶って以前から関心があった引退馬の余生について、当コラムで連載中。

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