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追悼・寺嶋正勝調教師

  • 2015年03月13日(金) 18時00分


 ここのところ、競馬関係者や競馬つながりの友人の訃報が相次ぎ、呆然とする日々だ。3月10日には、兵庫の寺嶋正勝調教師が急性心不全のために亡くなられた。63歳だった。

 寺島正勝さんは1968年、今はなき大阪の春木競馬場で騎手としてデビュー。1974年3月の春木競馬場廃止にともない、兵庫に移籍。騎手としては地方通算17,340戦2,457勝という成績を残し、地方全国交流として園田競馬場で行われていた楠賞全日本アラブ優駿も2度(1979年ヤングラッキー、1984年ニューサラトガ)制している。

 騎手引退後、調教師として1995年10月に初出走。地方通算6,094戦628勝(中央17戦0勝)という成績で、何と言っても活躍馬としては、チャンストウライ、オオエライジンの名が挙げられる。

 デビューから管理したチャンストウライは、2005年8月にデビュー戦のJRA認定競走を勝利。かつてアラブのみで競馬が行われていた兵庫にサラブレッドが導入されたのは1999年のことで、兵庫でデビューしたサラブレッドとしては7世代目ということになる。

 3歳時には兵庫ダービー、菊水賞の二冠を制覇。4歳時には帝王賞4着などダートグレードでも常に掲示板を確保していただけに、いずれどこかでチャンスはあると思われていたところで制したタイトルが、5歳初戦となった佐賀記念。2着のクーリンガーに4馬身差をつけ、コースレコードでの圧勝だった。

 兵庫所属馬としては、2001年に兵庫チャンピオンシップを制したロードバクシンに次ぐ2頭目のダートグレード制覇ということで大きな足跡を残した。

 一方のオオエライジンは、デビューは同じ兵庫の橋本忠男厩舎で、大井に移籍し鼻出血などの症状があり、南関東所属としては不出走のまま、2013年の5歳時に兵庫に戻って引き受けたのが寺嶋調教師だった。

 オオエライジンは、寺嶋調教師のもとでは7戦4勝。地方同士のレースでは敗けることがなく、ダートグレードの佐賀記念4着、名古屋大賞典5着はいずれも地方最先着で、地方馬には一度も先着されることがなかった。

 思い出されるのが川崎の報知オールスターカップ。レース当日、有楽町駅付近で火災があって新幹線がストップ。1月3日という日付だけに、おそらくさまざまな人脈を駆使したのだろう、なんとか羽田まで移動する飛行機を2席確保したが、下原理騎手は定められた時刻に間に合わないことがわかって川崎入りを断念。寺嶋調教師はギリギリ装鞍に間に合い、急遽の乗替りがベテラン張田京騎手となってゴール前の接戦をハナ差で制した。

 続く佐賀記念では、3〜4コーナーで先頭に並びかける場面がありながら、直線での競り合いで失速しての4着。このときはレース後、「先頭に立つのが早すぎる」と、下原騎手を厳しく叱る場面があった。

 寺嶋調教師には何度かお話をうかがったが、オオエライジンでは、とにかく鼻出血がいつ再発するともわからない状態で、大事にレースを使われていた。「鼻出血を発症しながら、ここまで復活した馬は初めて」とも話されていた。

 そして帝王賞では直線半ばで競走中止。左前球節部完全脱臼で予後不良は、なんとも残念だった。

 昨年12月11日に園田競馬場で行われた、2000勝以上のジョッキーによるゴールデンジョッキーカップでは、かつて兵庫所属としてこのレースに出場経験のある、田中道夫調教師、平松徳彦調教師とともに、この年初めての企画として、騎手時代の勝負服を着て誘導馬に騎乗。残念ながら現地観戦はできなかったが、スカパー!での中継や写真などで見た、寺嶋調教師の笑顔は印象的だった。

 ご冥福をお祈りいたします。

1964年生まれ。グリーンチャンネル『地・中・海ケイバモード』解説。NAR公式サイト『ウェブハロン』、『優駿』、『週刊競馬ブック』等で記事を執筆。ドバイ、ブリーダーズC、シンガポール、香港などの国際レースにも毎年足を運ぶ。

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