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安田記念に参戦した仏GI馬!武豊騎手が騎乗したアマジックマン/動画

  • 2016年05月31日(火) 18時01分
第二のストーリー

▲1997年の安田記念でタイキブリザードの4着、仏GI馬アマジックマンの今


あの東日本大震災が運命を変えた


 1997年の安田記念(GI)にフランスのGIフォレ賞の勝ち馬アマジックマンが参戦してきた。武豊騎手が手綱を取り、タイキブリザードの4着に敗れはしたものの、GI馬としての存在感はしっかりアピールする形となった。

 アマジックマンは、1992年にフランスで生まれた。保手浜弘規氏の所有馬として、前述した通りフランスのGIフォレ賞を含め、ドイツやフランスのグレードレースに5勝している。競走馬を引退した後は、日本で種牡馬入りし、北海道の静内町(現・新ひだか町)のレックススタッドに繋養された。

 しかし2007年の北國王冠(金沢)で3着のナムラコロンブスや、2008年に福山菊花賞(福山)を制したサムライランボーを出した程度で、これといった産駒は現れず、初年度(1999年)は39頭だった種付け頭数も、2004年には6頭と1桁に落ち込み、種牡馬としての岐路に立たされた。

 そんな時に保手浜氏から福島県南相馬市で菅野レーシングファームを経営していた菅野敦さんに声がかかった。北海道に4トントラックで赴き、自ら福島まで輸送してきた。その時に一緒にトラックに乗ったのが、牝なのになぜかポンタという名前のポニーだった。

「このポンタは、田中勝春騎手のお父さんのところから来たんですよ。ご家族全員に可愛がられていたみたいです」

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▲共に菅野レーシングファームにやってきたポニーのポンタ


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▲菅野レーシングファームの開放的な厩舎


 2004年、12歳で福島の地を踏んだアマジックマンだが、牡馬のままだとやはりうるさいところを見せたために、去勢をして乗馬として再調教を施された。

「馬として経験できることをさせてあげたいと思って、馬術の試合にも出ましたし、『十三人の刺客』という映画にも出演しました。合戦で駈けていくシーンに出たのですが、バーッと走っていっちゃって(笑)。やっぱり競走馬でしたから、掛かっていくんですよね。何回も走ったので、どんどんどんどんハミが掛かっちゃって。確か6、7年前くらいだったので、まだ元気でしたから。それでも最後まで何とか撮影できました。

 相馬野馬追では、他の人が乗ってお行列と旗取りに3年ほど参加しています。旗が打ち上がる時の音に最初は驚いてあちこち飛んで歩いていたらしいですけど、慣れてくると動きが良いのでスッと近くに行って旗を何本も取っています」

 2011年、あの東日本大震災が、菅野さんとアマジックマンの運命を変えた。

 菅野さんの牧場は福島第一原発から20キロ圏内の小高地区にあり、退去しなければならなかった。しかし、馬たちを残していくわけにはいかない。預かっている競走馬がいるから、なおさらだった。4月13日、菅野さんは弟さんや友人らの牧場と一緒に馬運車3台で、馬たちを避難させた。

「最初は栃木県壬生にある乗馬クラブに半月ほどお世話になりました。その後、競走馬がいるのならこちらの方が良いのではないかと同じ栃木県の鍋掛牧場の沖崎さんに声をかけて頂き、そちらに移動しました。壬生の乗馬クラブさんと沖崎さんには本当に感謝しています」

 もちろん避難した馬の中に、アマジックマンもいた。鍋掛牧場での避難生活は約4か月に及んだが、香取市にある沼田ファームの敷地内で競走馬診療をやっている目黒獣医の口利きで、沼田ファームの馬房を借りて菅野レーシングファームを続けることとなった。馬の仕事を辞めることも考えていた菅野さんだが、馬を通して築いてきた人との関係が今に繋がっている。

 一方アマジックマンには、震災や環境の変化によるストレスがかかっていたようだ。「栃木県では初めて疝痛を起こしましたし、こちらに移動してからは全身に蕁麻疹が出ました。何かを感じていたのかもしれないですね」


武豊騎手『風を感じる馬がアマジックマンだった』


 激動の2011年からおよそ5年が経過した。菅野さんに曳かれて厩舎から出てきたアマジックマンの馬体には、まだ冬毛が残っていた。

「今年はこれまでで1番冬毛が抜けるのが遅いです。3年くらい前からですかね、顔に一杯白髪が出てきたのは…」と、アマジックマンの額を撫でながら愛おしそうに話をする。それに応えるようにアマジックマンも、鼻づらを伸ばして目を細めていた。

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▲額の白髪が目立ってきた!?


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▲アマジックマンの額を優しく撫でる菅野さん


「若い子たちはまだ尖っている馬が多いですけど、このくらいになると甘え方も知っていますよね(笑)。元々、性格が良くて人懐っこい馬だったと思いますけどね。攻撃的に噛んだり蹴ったり、人にかぶさって来たりは一切しませんでした。子供でも手入れができるくらいですから」

 年齢のことを考えて、馬体のケアにも細心の注意を払っている。

「レントゲンを撮ってもらって、ちゃんと蹄に合った装蹄をしてもらったり、歯も定期的にこすって調整してもらったり、ウチの子だからということで、競走馬と同じくらい手をかけています。装蹄は、お預かりしている育成馬や競走馬たちと同じ3週間に1度、打ち替えてもらっているんですよ。鉄を外して裸足にするよりも、パンパンと鉄を打ってもらっていると競走馬だという気持ちを忘れずに気持ちにも張りが出て、いつまでも若さを保ってくれるのではないかと思いましてね」

 健康状態は今のところ問題はないというが、心配な面もある。

「去年より今年の方がちょっとおじいちゃんになったかなと思いますね。去年までは肉付きが良くて背中も割れていましたけど、今年に入ってそれがなくなってきました。濃い餌ももう食べようとはしませんね」

 そんなアマジックマンの好物は、リンゴだ。

「もうリンゴを見るとよだれを垂らすんですよ。福島にいる頃は、売り物にならずジュース用として使われるリンゴを安く売ってもらって、冷凍庫にたくさんストックしておいて、冬から5月にかけて毎日2個ずつ、ガリガリガリガリと音を立てて食べていましたよ(笑)」

 おじいちゃんになってきたと菅野さんに心配されるアマジックマンではあるが、現在もなお一流の競走馬の片鱗を見せる時がある。

「放牧場から戻ってくる時に他の馬より遅くなったら、跳ねて跳ねてすごいんですよ。馬をまだあまり扱えない人なら、曳いてこられないくらいすごいです(笑)。目ツボ(目の上の部分)がこんなに引っ込んでいますし、神経質なところがありますよね」

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▲後ろから扇風機をかけられるのが大好きだという


 ひとしきり撮影を終えて馬房に戻っていくアマジックマンと菅野さんの後ろ姿からは、ともに過ごしてきた12年という月日が培ってきた固い絆を感じた。

「この馬は家内とも相談して、自分の子として最期まで面倒をみようと初めて決めた馬なんです」

 その言葉が心に響いた。育成牧場は競走馬になるまでの育成や放牧に出てきた馬の休養や調整など、どうしても馬たちの通過地点という位置づけになりがちだ。1頭の馬が長く手元にとどまるということはほとんどない。それがゆえに、縁あってやって来たアマジックマンを、最期まで手元に置いて面倒をみようと心に決めたのかもしれないと想像した。

 優勝は叶わなかったが、黒光りする馬体を躍らせ、直線で末脚を伸ばしてきた安田記念でのあの雄姿が蘇ってきた。

「雑誌のインタビューかなにかで、武豊さんが『風を感じる馬がアマジックマンだった』と言っていたんですよね」。そう話す菅野さんは、とても嬉しそうだった。


※アマジックマンは見学可です。

見学ご希望の方は、希望日のなるべく1週間前までに以下にメールをお願いします。
bingogaru2000@yahoo.co.jp
(佐々木祥恵宛)

追って詳細をご連絡致します。

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北海道旭川市出身。少女マンガ「ロリィの青春」で乗馬に憧れ、テンポイント骨折のニュースを偶然目にして競馬の世界に引き込まれる。大学卒業後、流転の末に1998年優駿エッセイ賞で次席に入賞。これを機にライター業に転身。以来スポーツ紙、競馬雑誌、クラブ法人会報誌等で執筆。netkeiba.comでは、美浦トレセンニュース等を担当。念願叶って以前から関心があった引退馬の余生について、当コラムで連載中。

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