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【新規開業】橋口慎介調教師(2)『欠点が全くない!理想の競走馬はプライドキム』

  • 2016年08月08日(月) 12時01分
おじゃ馬します!

▲注目の新人トレーナー橋口慎介調教師 幼少期に抱いていた父・橋口弘次郎元調教師への思いとは


父である橋口弘次郎元調教師は宮崎県出身。大学卒業後に佐賀競馬の騎手となり、1982年にJRAで厩舎開業したという異色の経歴の持ち主です。開業後は厩舎に住み込み、馬の管理に注力していた弘次郎調教師。あまりに馬が身近過ぎて、逆に興味が湧かなかったという慎介少年でしたが、気がつけば父と同じ道を歩むことに。アイルランドの大学で馬を学び、帰国後は池添兼雄厩舎一筋で仕事に打ち込んできた慎介調教師の軌跡をたどります。(取材:東奈緒美)


(前回のつづき)

「お父さんは何の仕事をしてるのかな?」


 お父様の弘次郎先生は、佐賀で騎手をされていたんですよね。慎介先生が物心ついた時というのは?

橋口 その頃は吉永厩舎で調教助手をしていましたね。当時は社宅に住んでいたのですが、僕が小学校1年生の時に厩舎開業して、そこからはずっと厩舎に住んでいました。なので僕は厩舎から小学校に通って、帰ってきたら馬がいるという生活で。

 それは、馬が身近に感じられますね。

橋口 身近というか、身近過ぎてもう何とも思わなかったといいますか(笑)。珍しい方が興味は湧くじゃないですか。本当に犬や猫みたいに近い感覚だったので、子どもの時は特に馬には興味がなかったんです。父が何の仕事をやってるのかも、よく分かってなかったですしね。

 えっ、そうなんですか?

橋口 だって僕が学校から帰ってくる時間には、もう家にいましたから。横になってテレビで相撲を見てましたよ(笑)。子どもながらに「お父さんは何の仕事をしてるのかな?」って思ってたくらい。「調教師」だというのは知っていたんですが、それがどういう仕事なのか、助手との違いは何なのかというのも分かってなかったです。僕から聞くこともなかったですしね。

 一緒に競馬場に行かれたことは?

橋口 ん〜、もしかしたら小さい頃にはあったのかもしれないですけど、全然覚えていないです。テレビで競馬中継を見た記憶すら、あまりないんですよね。中学校に入った頃ですかね、父の厩舎の成績が上がって来て、新聞や雑誌で取り上げてもらえるようになったんです。載ったらやっぱり見るじゃないですか。見せてきますし(笑)。

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▲「小さい頃は馬が身近過ぎて興味が持てなかった。父の厩舎の成績が上がって来て、だんだんと意識するように」


 「お父さんが出てるよ」って(笑)。

橋口 そうそう。それを見て「あぁ、こういう仕事をしてたんや」って、ちょっとずつ分かっていったんです。学校もトレセン関係者の子が多かったので、みんなで競馬の話をするんですよね。それでだんだんと興味も出てきて、競馬も見始めるようになって。中学校3年生の時には、友人と一緒に騎手試験を受けました。

 やっぱり目指すはジョッキーだったんですか?

橋口 いや、何が何でもジョッキーにというわけではなく、ホースマンとして何らかの形で馬に携わっていきたいなと思っていたんです。視力が足らなくて、騎手試験は受からなかったんですけど、その時点で「調教師になろう」と決めました。それで高校を卒業してから、アイルランドに行ったんです。

 海外で武者修行を!?

橋口 武者修行というか、アイルランドに馬のことを学ぶ学科がある大学がありまして、そこに通いました。大学のプログラムの一環として、いろいろな厩舎に研修に行ったり、その期間にノーザンファームに行ったりもして。

 アイルランドからノーザンファームに? 逆輸入ですね! じゃあ、英語もペラペラ?

橋口 う〜ん、その時は(笑)。今はもう忘れてしまいました。やっぱり普段から使っていないとなかなか。英会話教室に行って、勉強し直さないといけないかな(笑)。競馬の世界で初めて仕事をしたのが海外でしたから、その時には分からなかったですけど、日本に帰って来て改めて考えると、「やっぱり海外は、すごいものがたくさんあったんだな」と思いましたよね。今考えると、レベルはすごく高かったです。

 そういう経験を積んで、日本に帰ってきてからは池添兼雄厩舎の所属に?

橋口 そうです。調教師試験に受かるまでの15年間、ずっとお世話になりました。

 お父様の厩舎にというのは、思わなかったんですか?

橋口 父の厩舎に空きがなかったというのもあるのですが、僕が入ると父も従業員もみんな働き辛くなってしまうかなと。それなら外で勉強をした方がいいだろうと思ったんです。池添厩舎はすごく仕事がやりやすい厩舎なんです。全部任せてくださる先生なので、自分がやってみたいことが出来た。その分責任もありますけど、やりがいがありました。自分で“トライアルアンドエラー”で、って、あっ、すみません、ちょっと英語が出ましたけれども(笑)。

 英語、全然大丈夫じゃないですか(笑)。

橋口 日本語で言ったら“試行錯誤”ですね(笑)、それが出来たので、池添厩舎で学んだことは今でも生きています。とにかく当時は仕事が楽しくて、厩舎の居心地もすごく良かったので、「一生この仕事でいたいな」と一時期は思ったくらい。ただ、父の定年が見えていたことと、厩舎で一緒に助手をしていた学(池添学現調教師)や、さらに年下の茶木というやつが調教師試験を受け出したのが一番の刺激になって、僕も受け出しました。

 見事に2回で合格されたということなんですけども、受かってからは角居厩舎で技術調教師に?

橋口 そうですね。最初の半年ぐらい角居厩舎でお世話になって、それからいろいろと牧場を回りました。10月ぐらいに父の厩舎に移って、そこから開業まで在籍したんですけど、そのタイミングで父が体調を崩したのもありまして、いろいろと任せてもらえたことはすごく勉強になりましたね。

 調教師業の実務を、早くに経験されたんですね。

橋口 調教の内容や番組選びは父がやっていましたが、あとの事務的なところは全部任せてもらっていました。大きなレースに使う馬もいたので、メディア対応もやらせてもらって、そんなところでも早めに調教師気分を味わえたりして。

 これまで担当されたなかで、思い出の馬はいますか?

橋口 いろんな馬をやらせていただいたんですけど、持ち乗りの時に担当していたプライドキムという馬ですね。地方の交流GI(全日本2歳優駿)を勝ってくれまして。実は当時、ケンタッキーダービーに挑戦するという話も出ていたんです。結局は行かなかったんですが、そんな大きな夢も見させてくれた馬ですね。

おじゃ馬します!

▲ダート戦線で活躍したプライドキム(撮影:下野雄規)


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▲ケンタッキーダービーに挑戦するという話も出ていたという(撮影:下野雄規)


 やっぱり海外というのは常に意識されてたんですか?

橋口 その時はオーナーサイドからのお話だったのですが、僕自身も海外のレースで走らせることは憧れとしてずっとありました。この馬はすごく素直で、普段から扱いやすいんです。乗りやすい馬なので、どういう調教でも思った通りにできましたし、飼い葉もしっかり食べてくれて、競馬も一生懸命走ってくれる。競走馬として欠点が全くないような馬でした。今でも、僕の中の理想の競走馬ですね。

(次回へつづく)

東奈緒美 1983年1月2日生まれ、三重県出身。タレントとして関西圏を中心にテレビやCMで活躍中。グリーンチャンネル「トレセンリポート」のレギュラーリポーターを務めたことで、競馬に興味を抱き、また多くの競馬関係者との交流を深めている。

赤見千尋 1978年2月2日生まれ、群馬県出身。98年10月に公営高崎競馬の騎手としてデビュー。以来、高崎競馬廃止の05年1月まで騎乗を続けた。通算成績は2033戦91勝。引退後は、グリーンチャンネル「トレセンTIME」の美浦リポーターを担当したほか、KBS京都「競馬展望プラス」MC、秋田書店「プレイコミック」で連載した「優駿の門・ASUMI」の原作を手掛けるなど幅広く活躍。

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